戦後初めての記者交換 4度も変えた東京の住居

2018-10-31 19:39:42

劉徳有=文 

 黄昏時、東京文京区の川口アパートの3階にある私の部屋で、書き物に疲れて頭を上げると、西向きの窓から、夕日に赤く染められた空に富士山がかかっているのが見え、シルエットのように美しかった。

 五十数年前のことである。

 そのころ、川口アパートは第1陣の中国駐日記者の住まいだった。

 戦後、中日間には常駐記者のない状態が長い間続いていたが、1964年4月、3度目の訪中を果たした松村謙三氏と、周恩来総理、廖承志氏との会談によって、中日関係は民間往来の段階から半官半民の段階へと実質的な一歩を踏み出した。その具体的な表れがLT貿易事務所の相互設置と中日記者交換の実現であり、私を含めて7人の中国記者が東京に到着したのはその年の9月29日だった。中国記者団の常駐は、新華社東京支社の成立をも意味していた。くしくもというべきか、同じ日に、日本の記者たちも北京に到着した。

 

1964929日、戦後中国が派遣した駐日記者の第1陣が東京の羽田空港に到着した。右端が筆者(劉徳有氏提供) 

 東京に着き、まず住むところを決めなければならなかった。当初、部屋をいくつか借りて事務所にしようと考えていたが、東京に来てみると、短期間に適当な部屋を見つけることは容易でないことが分かった。とりあえず一般のホテルに泊まることにした。

 最初の宿舎は、東京千代田区一番町のダイヤモンドホテルだった。イギリス大使館の後ろにあって、皇居からそう離れていなかった。

 東京に着いた翌日の9月30日は中華人民共和国成立15周年の前夜に当たり、その晩、日本の友人と愛国華僑がダイヤモンドホテルの1階ロビーで記念パーティーを催したが、そのときの様子を紹介したものが日本到着後新華社に送った最初の記事となった。

 しかし、わずか数日後、われわれは千代田区永田町のグランドホテルに移った。

 国会議事堂や議員会館そして首相官邸に近いので、取材には好都合だった。そこに移ってすぐ、昼は部屋を仕事場兼応接間として使い、夜は寝室にした。部屋に白黒テレビを置き、絶えずニュースをチェックしていたが、設備や条件が整っておらず、新聞掛けさえなかった。そこで、毎日の各新聞を昼間はベッドに広げ、夜は床に移すことを繰り返していた。

 グランドホテルに入居して間もなく、6410月に、三つの出来事が続けざまに発生。一つ目は、1015日にソ連の最高指導者フルシチョフ解任、二つ目は、翌16日に中国による最初の原爆実験成功、三つ目は、池田首相が喉頭がんにかかり入院したため、日本の政局が次期総理の人選を巡って揺れ始めたことである。

 64年の末に、中国記者団は仕事の便宜上、LT貿易事務所要員の宿舎になっていた文京区春日の川口アパートに移った。ここは、国会議事堂には遠いが、神保町や大学から近かったため、取材には都合の良い場所であった。

 川口アパートは、名前こそアパートだが、当時の生活水準から言って高級マンションであり、劇作家川口松太郎氏の長男である浩氏の経営するエンタープライズの一部分だった。玄関に入るとまず、川口松太郎氏の揮毫による「家の美は心の美を創る」というキャッチフレーズの大きな額が目に飛び込んでくる。アパートの住民は多くはなかったが、ほとんどが芸能関係者で、川口一家も同じアパートに住んでいた。

新潟県にある海底油田の掘削現場で取材する筆者(右端)(劉徳有氏提供)

 ある日、LT貿易事務所の要員と中国記者団が川口松太郎夫妻からアパートの川口邸に招かれ、お茶をごちそうになったことがある。友好的なお気持ちから、川口氏は長年保存していた梅蘭芳の京劇のレコードをかけてくださり、心からもてなしてくださった。ところがその頃、中国全土にすでに「文革」の嵐が吹きまくっており、京劇を含め古い文化芸能が一掃され打倒されるというアブノーマルな状態にあったので、中国側は処置に困り、いっぺんに座が白けてしまった。56年に梅蘭芳の日本公演に随行したことがあるLT貿易の孫平化首席代表は、本来なら話題に事欠かないはずなのに、お互いに複雑な気持ちを抱いたまま別れてしまった。今にして思えば、川口一家に対して相済まない気持ちでいっぱいである。

 当時、職業柄毎日一番多く相手にしたのは、新聞とテレビだった。いつも新聞をめくりながら、テレビ番組を見ていた。もちろん娯楽のためではない。日本は月刊、週刊、専門誌など雑誌の数が驚くほど多く、何種類か目ぼしいものをとっていたが、全部は読み切れなかった。月刊と週刊には重みのある文章が少なく、見出しは目立っても、中身のないものも多かった。日常の報道の大半は、日本の大衆運動と日中友好運動で、日本の政局の変化と経済状況についても多少あった。「文革」が始まってから、中国国内の情勢にピタリと合わせ、日本の一部の人の毛沢東思想「活学活用」や、青年の間に日増しに強まってきた学生運動を一生懸命に報道した。

 記者として、毎日部屋に閉じこもっているわけではなく、地方などにもよく行った。もちろん、私服警官が「警備」と称して必ず尾行した。66年6月、米国の核潜水艦が横須賀に入港した際、中国記者の高地と陳泊微の2人が雨の中を取材に行ったが、日本当局はこともあろうに、劉徳有らがデモの参加者と一緒にスローガンを唱えたとうわさを立てた。佐藤首相も「政治活動だ」と言って厳しく調査すべきだと指示したそうである。しかし、事の真相は、あの雨の日に、中国記者の傘が少し動いたようで、それを見ていた私服警官が、中国記者がスローガンを叫んだと報告したことが発端であった。最後に、外務省と法務省は日本側の指摘は根拠のないもので、いわゆる劉徳有が現場にいたことも虚構であることを認めた。記者会見を開いて厳重な抗議を申し込んだことは言うまでもない。

 中国記者団が川口アパートから最後の住居恵比寿3丁目の新築のビルに引っ越ししたのは67年7月で、その建物は今では正式に新華社東京支社の社屋となっている。

 1階にスナックがあり、引っ越したばかりの頃、外に食べに行くのが面倒だったので、いつもそこで食事を済ませた。川口松太郎夫人で世に広く知られている大女優の三益愛子さんや浩氏の奥さん、これも名優の野添ひとみさんらが自ら給仕役を買って料理を運ぶのを目にし、中国では考えられない情景だったので、びっくりした。
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