郭沫若と岩波茂雄

2018-11-28 15:08:41

文=劉徳有

 今から六十数年も前の話である。

 中国の文豪で、有名な学者の郭沫若氏は、人情に厚い人だった。1955年12月、18年ぶりに日本を訪れた郭氏は東京に着くとすぐ、かつて日本に亡命中にお世話になった日本人のお墓参りを申し出た。そのうちの一人が岩波書店の創立者岩波茂雄氏だった。

 まだ国交のない当時の中日関係から言って、郭氏がなぜ、わざわざ日本人のお墓参りをしなければならないのか、若くて未熟だった通訳の私には、正直言って理解できなかった。

 12月4日、北鎌倉の東慶寺にある岩波氏の墓に着いたときは、辺りが暗くなっていた。ご子息の雄二郎氏、娘婿の小林勇氏らご遺族、経済学者の大内兵衛博士と東慶寺の住持禅定法師が待っていた。

 郭氏は日本の習慣に従って、おけから水をくんで墓碑に掛け、静かに黙とうをささげた。墓参が終わると、遺族の方たちは、岩波茂雄はあの世できっと喜んでいるでしょうとお礼を言って、氏を畳の部屋に案内された。

 岩波家の人があらためてお礼の言葉を述べると、郭氏も正座して感慨を込めて丁重に言った。

 「岩波茂雄先生にお会いしたことはないのですが、いろいろお世話になって大変感謝しております。18年前、私は家族を日本に残し、ただ一人で中国へ帰りましたが、岩波先生は私の子どもに費用を出して勉強をさせてくださいました。現在、2人の子どもは大学を卒業して、長男は研究員として大連化学研究所に勤めています。次男は上海で勤めています。岩波先生になんとお礼申し上げたらよいか」

 これを聞いて、郭氏がこの機会に、ご恩返しのため一度も会ったことのない恩人のお墓参りをしたのだと初めて知った。

 郭沫若氏は若いころ日本に留学し、帰国後、旧政権の迫害を受け、1920年代に日本に亡命し、1937年7月に七七事変(盧溝橋事件)が勃発するまで10年間も千葉の市川市に住んでいたが、七七事変が勃発すると、一人で日本を脱出して中国に帰り、抗日民族解放闘争に身を投じた。日本に残された奥さんと5人の子どもは政治的迫害を受け、経済的にもひどく困難な状態に陥った。奥さんが憲兵に連行され、一家がどうにもならなくなったとき、岩波氏は市川市へ長男を訪ね、一家の生活費と子どもの学費を負担すると申し出た。当時、これは大変なことであった。「敵に内通する」「売国奴」「非国民」の罪を被る可能性もあったが、氏は少しもためらうことはなかった。

 惜しいことに、岩波氏は、新中国が生まれる3年前の1946年に亡くなった。

 郭先生は筆を執り、禅定法師の持ってきた色紙に次のような詩をしたためた。

 生前未遂識荊願,     生前遂げざりき識荊の願い

 逝後空余掛剣情。     逝後空しく余す掛剣の情

 為祈和平三脱帽,     和平を祈らんがため 三度脱帽す

 望将冥福裕後昆。     望むは 冥福もて後昆を裕かに

         されんことを

 

 「識荊」とは、待望の人に初めて会う意味の成語だが、郭先生は岩波氏の生前に「識荊」の願いを遂げられなかったことを嘆いて「生前遂げざりき識荊の願い」と詠み、そのすぐ後に、「掛剣」の故事を引用して、「逝後空しく余す掛剣の情」としたため、岩波氏に直接会ってお礼を申し上げたかったのに、氏はすでに亡くなられている、その無念さを詠んだ。

 ここで「掛剣」の故事について一言――出典は、『史記』と『蒙求』。春秋時代、呉の王子季札が使者として魯に向かう途中、徐に立ち寄ったところ、徐の君主は季札の剣を見せて欲しいと思ったが、言い出せなかった。季札にはその気持ちが分かったが、使者として諸国を歴訪するのに剣を外すわけにはいかず、そのまま立ち去った。帰国するとき、剣を進呈しようと徐を訪ねたが、残念なことに相手はすでに亡くなっていた。そこで季札は剣を徐の君主の墓のそばにある木に掛け、心中の誓いを果たした、というのがこの故事の由来である。

 最後の2句は、岩波氏の墓前で、世界の平和を祈り、氏の子孫が幸せになるよう心から祈った情景を詠んでいる。

 ところで、好んで俳句に漢詩文や中国の故事を取り入れた明治の文豪夏目漱石は、偶然の一致とでも言うべきか、郭氏と同じように「掛剣」の故事を引用して、俳句を作っている。

 

 春寒し墓に懸けたる季子の剣

 

 日本独特の詩の形態である俳句に、漢詩文を取り入れたものが少なからずあり、これも中日文化交流の中の面白い現象の一つであろう。漢詩文の吸収は、芭蕉以来の伝統であり、芭蕉を代表とする蕉風の出現によって、旧来の俳風が一変したと言われたのも、漢詩の技法や内容を導入し、または融合したことが大きな原因の一つであったと聞いている。漢詩文の素養を持ち、しかも漢詩文に濃厚な趣味を持って初めて、その内容や詩想を巧みに句の作成に応用できるのではないだろうか。漢詩文の導入と融合によって、俳句の世界がいっそう大きく広げられたことは言うまでもない。

 夏目漱石がここで「掛剣=剣を掛(懸)ける」という言葉を使ったのは、「剣」の寒々とした光で早春の寒さを強調したかったからだと思う。

 同じ「掛剣」でも、郭沫若氏は詩の中で「掛剣」の本来の意味を生かしているが、岩波氏のお墓にぬかずいたこの心温まるエピソードは、一般に知られざる中日交流史の貴重な1であると同時に、今後中日友好交流を進める上で、政治的立場の堅持はもちろんのこと、経済的利益の獲得も大切だが、「情」――“心の美”がいかに大切であるかを教えてくれている。 

 中日関係がギクシャクしている今日、このエピソードをもう一度かみしめてみたい。

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