劉徳有=文
井上靖氏の令嬢・浦城いくよ氏の『父 井上靖と私』(ユーフォーブックス)を読み進むうちに、ある一節が目に留まった。
「(昭和61年4月、父・井上靖が)中国の歴史を扱った数冊の小説と日中文化交流の功績に対して、北京大学から名誉博士号を頂くことになった。大学の大きな階段教室に教授や関係者四百人が集まって授与式が行われた。(中略)
その翌々日、中南海で胡耀邦総書記と会見した。その席で父は胡耀邦氏から思いがけない言葉を頂いた。『井上靖先生は楼蘭にとても行きたがっておられると聞いています。この旅ですぐに行かれてはいかがですか。明日にでもいらっしゃい』」
「その時の父の喜びと戸惑いは大変なものであった。宿泊先の北京飯店へ向かう自動車の中でもホテルへ到着してからもソワソワとして、何を置いても行きたいという気持ちがはっきりと表情に現れていた。しかしいくら総書記の発言とは言え、あまりにも突然なことであり、周囲の人や中国側の担当者の慌てたことは言うまでもない。何しろ1934年のヘディン隊以来五十年余りも外国人はいけなかった所なので、簡単に行ける筈がない。結局楼蘭行きは諦めざるを得なかった。永年あれほど行きたがっていた所なので、周囲が止めようが無理をしてでも行ってしまえば良かったのに、と今でも残念に思う」
胡耀邦氏との会見には、文化部の担当者として筆者の私もその場に居合わせた。そんなわけで、この一節を読んでさまざまなことが頭をよぎった。
恐縮な話だが、楼蘭行きは、実は私の夢の一つでもあった。残念ながら、この夢はいまだに実現していない。
西域に残る楼蘭古址は、その昔、「楼蘭国」の都、シルクロードの要衝であり、2世紀前後に栄え、4世紀ごろに突然姿を消した、と言われている。7世紀まで、そこはまだオアシスであったとか。
その楼蘭だが、いま私の書斎の本棚に、著者ご本人の井上靖氏から頂いたサイン入りの小説『楼蘭』(講談社)が2冊並んでいる。1冊は脱稿直後に出版された1959年版、もう1冊は60年の8月版で、こちらの方には著者の「あとがき」があり、「こんど本書上梓に当って、改めて読み返してみたが、やはりこの作品を支えているものは、楼蘭という往古の城廓都市に対する若い日の私の詩であると思った。……これは私の楼蘭であり、若い日の私が惹きつけられて綴らずにはいられなかった私の楼蘭である」という井上靖先生のかの地に対する憧れと愛情が述べられている。
1冊目の『楼蘭』を頂いた頃、私はまだ若く、勤務先の『人民中国』編集部の独身寮に入っていたが、その後結婚し、何度か引っ越しをして転々としているうちに、この貴重な本もいつの間にか姿を消し、記憶も薄れてしまった。そうこうしているうちに、あのすさまじい「文革」の嵐が吹きまくり、周囲の雰囲気におびえて私は、手当たり次第に身辺の日本語の書物を燃やしてしまった。手放すのが惜しい本も何冊かあった。嵐が過ぎた後、時々「文革」時に煙と化した書物を思い出し、自分の「焚書」の愚を後悔した。
下って91年、「春節」と呼ばれる旧正月に、友誼賓館にお住まいの、外文出版局の日本人専門家・横川辰子氏のお宅に年始のごあいさつに伺ったとき、思いがけなく、古びた1冊の本を手渡された。見ると、『楼蘭』だった。見慣れた表紙のあの本ではないか?
「私にも以前……」と言い掛けて、表紙を開けると、扉に井上靖氏のサインと私の名前があった。
横川氏によると、荷物を整理していてこの本が出てきたとのことだった。
「『人民中国』で働いておられた池田寿美さんが日本に帰るとき、家にあった本を処分するため、西園寺(公一)さんと私のところに持ってきたときから、この本がずっとここにあったのよ。多分、亡くなられた池田亮一(寿美さんのご主人)先生が劉さんのとこから借りていて忘れていたんでしょう」
この説明を聞いて納得がいった。幸いに、この本は「文革」の難を逃れて健在だったのだ。
このことがあって、ふと86年4月に井上靖氏が中国政府文化部の招きで中国へいらしたときのことを思い出した。前にも述べたように、胡耀邦総書記との会見の際、私も陪席したが、そのとき、井上氏から楼蘭訪問の強い希望が胡氏に打ち明けられ、胡氏から文化部に善処するようにとの指示が出された。しかし、大砂漠の中にある楼蘭古址一帯は、気候の変動が激しい上、ヘリの着陸地点の特定も難しく、万一、砂嵐に遭った場合、安全面の心配があるということで、関係部門がどうしても首を縦に振らなかったため、見合わせることになった。
井上氏にとってこれほど残念なことはなかったろう。
「楼蘭行きは、私の最大の希望です。ヘリから降りて、ちょっとでもそこに立つだけでいいのです。そうすれば、私の小説『楼蘭』の末尾に、『いま私が立っているところが、古代楼蘭国である』と書けるのです。この一句を書いて、この小説は完成しますが、さもなくば未完成作品です」
私は一度ならず井上氏がこう語るのを聞いた。
浦城いくよ氏も著書の中で、「(父は)昭和33年に『楼蘭』という短編小説を書いている。『楼蘭へ行ってそこの大地に自分の足で立って、そして天を仰ぎたい。それから小説「楼蘭」に最後の一行を書き加えたい』というのが父の永年の夢であった」と書いている。
楼蘭行きは、確かに井上氏の夢だった。その井上氏は今はもういない。しかしこの夢は、文明を追求してやまない人類の夢としていつまでも続くと思う。
次号より、新連載「ESSAY・楽しい異文化の旅」が始まります。ご期待ください。