茶の香り漂う世界複合遺産 絶景観賞はいかだに乗って

2023-05-16 16:50:00

李一凡=文

李昀=イラスト

vcg=写真

福建省北西部に位置する武夷山は、世界で23番目、中国で4番目の、文化と自然の双方の価値を持つ世界複合遺産の地だ。大自然が武夷山に独特で恵まれた自然環境を与えたことにより、ここは国内外で有名な観光レジャーの人気スポットおよび「世界の生物学の窓」となった。長い歴史を経て、この不思議な山地には、理学文化、茶文化、磨崖題刻などの豊富な歴史的遺構や人的文化景観も残されている。 

渓流と丹霞が織り成す神秘の地 

武夷山の名称の由来は数多くあるが、一説には、次のように伝えられている。上古の堯帝の時代、養生法に詳しい長寿者の彭祖が一族と共に武夷山一帯に転居した。当時、そこは洪水が頻発しており、彭祖の2人の息子――彭武と彭夷は一族を率いて、土を積み上げ、川をさらって、治水工事を行った。そうしてできた山脈を、後世の人々は「武夷」と呼んで、彼ら兄弟を記念した。 

中国南東部に位置する福建省は「八山一水一分田」と言われ、域内の8割以上の土地が山地や丘陵に覆われており、美しい自然景観が多い。そんな同地の数ある絶景の中でも、縦横に広がる武夷山は「奇秀甲東南」(南東部随一の風景)とたたえられている。南北朝時代の詩人江淹(444505年)による武夷山に対する「碧水丹山、珍木霊草」という描写は、同地の風土地形を最もうまく要約している。 

碧水と丹山 

「丹山」とは、武夷山の山体の特徴を指す言葉だ。何億何万もの年月をかけ、地質地形が変化し続け、山の峰々が徐々に隆起した。外層の岩体が風雨にさらされ、風化剥離すると、鉄イオンを豊富に含んだ赤褐色の岩石が現れた。こうして最終的に丹霞地形へと変化した。 

中国に丹霞地形は多いが、一般的に丹霞地形の土地は貧弱で、草も生えない。だが、武夷山の山体はそうではなく、花崗岩や溶岩、砂質頁岩、変成岩など、さまざまな岩石が含まれ、植物の成長に比較的適している。遠くから武夷山の峰々を眺めると、青々と生い茂る草木と赤褐色の山体が引き立て合って、非常に見ごたえがある。 

林立する奇峰も武夷山の魅力だ。36の山峰が並び立ち、どれも一つの岩で出来ており、巨大で、形状もさまざまだ。中でも、大王峰は威厳に満ちた姿で有名で、頭を上げてそびえ立っており、天を支える巨大な柱のようで、「武夷第一峰」と言われている。それに向かい合う玉女峰は、頂上に色とりどりの花が咲き乱れ、美しくしとやかな少女のようだ。そして、現地の人々と観光客に最も好まれ、風景が最も素晴らしいのは天游峰で、現地では「天游峰に登らなければ武夷山に来たことにならない」とまで言われている。天游峰はそれほど高くないが、険しく切り立っており、上に登ると、連なる山々と曲がりくねって流れる九曲渓が俯瞰でき、武夷の山水を一望することができる。運良く雲海が出ていれば、まさに天の宮殿で遊んでいるかのようで、それが「天游」という名前の由来でもある。 

丹山の間には、多くの川が流れており、これが「碧水」だ。九曲渓、黄柏渓、梅渓……さまざまな碧水が日々絶えることなく山体を削っている。山と水の共同作業により、大小さまざまな河谷が形成された。碧水のうちで最も有名なのは、武夷山南麓から流れ出ている九曲渓だ。この渓流は約10にわたる両岸の奇峰の間を流れ、美しいカーブを描いている。 

いかだに乗って九曲渓を下るのは、武夷山で最も特色のある楽しみ方だ。幅約2、長さ約9の昔ながらのいかだに乗って進む約2時間、上を向けば山の景色、下を向けば川の流れが見え、耳にはせせらぎが聞こえ、手を伸ばせば澄んだ水に触れられ、まさに「絵の中で遊ぶ」かのようで、「軽舟すでに過ぐ万重の山」といった趣が味わえる。 

素晴らしい風景が見られる武夷山は、歴史上、各地の自然風景を好んで巡る風流な人々を多く引き付けてきた。九曲渓の両岸に彫られた数百カ所の磨崖石刻は、彼らが訪れた証拠だ。また、川下りの途中には、両側の絶壁の岩穴にある懸棺遺跡を見ることもできる。懸棺葬は古い埋葬の方法で、武夷山の懸棺遺跡は現時点で国内外で発見されている最も古い懸棺遺跡だ。3500年前の武夷山の先人たちは、どのように棺を断崖絶壁の岩穴の中に安置したのだろう?それは現在でも未解決の謎である。 


樹木が茂り、雲海が漂う武夷山国立森林公園 

「世界の生物学の窓」 

「碧水丹山」の絶景と独特な地理条件は、武夷山にしかない自然環境を形成し、数千種類の「珍木霊草」を育んだ。 

地球の同緯度地域の多くは、植生が極めて少ない砂漠地帯だ。しかし、連綿と連なる武夷山脈はまるで天然の障壁のように、北方から来る寒気を阻み、海からの湿潤な暖気も遮る。そのため、この地は四季がはっきり分かれ、雨が多く、湿度が高く、最終的に地球の同緯度地域において最も完全で、最も典型的で、面積が最も大きい中亜熱帯原生林生態系を形成するようになった。 

統計によると、武夷山ではこの100年余りで、1000種類を超える新種が発見された。豊富な生物資源のおかげで、武夷山は「鳥の天国」「蛇の王国」「昆虫の世界」「アジアの両生爬虫類動物研究の鍵」など、さまざまな美称があり、世界の生物多様性保全にとって重要な地域になっている。 

さらに喜ばしいのは、国立公園の建設に伴い、武夷山は依然「世界の生物学の窓」を磨き続けているということだ。 

2016年、全国10カ所の施行地区の一つとして、武夷山国立公園体制の施行が正式に始まった。211012日、生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)の首脳級会合で、中国は武夷山を含む第1陣の国立公園5カ所の正式な設立を宣言した。 

設立当初から武夷山国立公園は、どのように科学技術を使ってスマート管理を実現し、生物の多様性を保全するかを模索してきた。現在、武夷山国立公園スマート管理センターは、ドローンを含む衛星リモートセンシング、赤外線カメラ、パトロールレコーダーなどの設備を利用し、公園の「天空地一体化」観察測定を実現し、パトロール範囲を拡大し、さらに効果的に動植物資源などに関する状況を観察している。 

統計によると、武夷山国立公園体制の施行以来、17種類の新種が発見された。昨年1月時点で、ここでは野生動物7407種類、高等植物2799種類が記録された。これらの発見は、ハイテクのサポートの下、武夷山国立公園の環境が改善され続け、生物多様性が効果的に守られていることを物語っている。 

 

朱子学の「揺り籠」 

武夷山は南東部の有名な自然名山というだけでなく、厚い歴史を有する文化の高峰でもある。1999年にユネスコが武夷山を世界複合遺産として登録した重要な理由の一つは、ここが朱子学(理学)の揺り籠だからだ。 

朱子は、孔子と並び称される儒家思想の代表的人物――朱熹(1130~1200年)である。1143年、朱熹は母親に付いて武夷山にやって来て、ここで学び、暮らし、書物を著し、学生に教え、40年余り過ごした。 

孔子が創始した儒家文化は中国伝統文化の核心だが、歴史上、かつて低迷したことがある。両晋(西晋、東晋)から唐にかけて、外来の仏教と土着の道教の影響が不断に拡大し、儒家の勢いは徐々に弱まった。だが、南宋時代になると、朱熹が孔子と孟子の教えを基礎として、仏教と道教の思想、諸子百家の精髄を吸収し、独自の「天理」を核心とする理学を打ち立て、中国伝統文化の内容を極めて豊富にし、最終的に儒家の復興を遂げた。 

武夷山の自然の中には、至る所に朱熹の足跡が残っている。中でも最も有名なのは九曲渓のほとり、隠屏峰の麓にある朱熹園で、ここは1183年に朱熹が創建した武夷精舎跡だ。800年前、朱熹は武夷精舎を本拠地として、広く学生を集め、書物を著し、講義を行い、徳育を核心とする教育思想を宣揚し、中国の書院文化をピークに押し上げた。 

精舎をよりどころとして、朱熹は一生の成果の礎となる重要著作の執筆や研究活動を展開した。特に『大学』『中庸』『論語』『孟子』(四書)について、権威のある注釈を整理し、自己の解釈を加えて、『四書章句集注』と名付けた。これは朱子学の体系の成熟を示しただけでなく、彼の死後も元清代の科挙の標準的な典籍となった。 

世の中が移り変わり、武夷精舎は戦乱で破壊された。現在の朱熹園は、2001年に清代の董天工の「武夷精舎図」に基づいて、宋代の建築様式を模して元の所在地に再建されたものだ。ロビー、朱熹生涯展示ホール、講堂、遺跡エリアなどに分かれており、朱熹の生涯と教学著述の成果を集中的に展示している。 

  

「万里茶道」の起点の昔と今 

茶文化は武夷山のもう一つの触れなければならないキーワードだ。山地の地形および十分な降水量に加え、高温多湿の気候条件の下で形成された、粘性酸性が強い紅土によって、武夷山は茶樹の栽培に適したところになった。 

17世紀より、山西商人(晋商)は武夷山で茶葉を買い付け、ここを起点として、北上してユーラシア大陸を越え、ロシアのサンクトペテルブルクまで至る、全長約1万4000の「万里茶道」を切り開いた。「万里茶道」はシルクロードに次いで、ユーラシア大陸で興ったもう一つの重要な国際貿易ルートで、武夷山の茶葉と茶文化はまさにこの貿易ルートを通って、ロシアや欧州各国に伝えられた。 

武夷山のさまざまな茶葉の中でも、知名度が最も高く、国内外で最も好まれているのは、正山小種と武夷岩茶である。 


摘んだばかりの新鮮な武夷岩茶

最高級の紅茶と烏龍茶 

紅茶は全世界で消費量が最大の茶で、武夷山発祥の正山小種こそがその元祖である。正山小種は松で薫製するため、「松木香、桂圓湯」(松の煙の香り、龍眼のスープ)のような特徴がある。史料によると、正山小種は17世紀にオランダ商人によって欧州に持ち込まれ、すぐに英国王室を魅了し、それから徐々に欧州各国で流行し始め、現在まで続く「アフタヌーンティー」の習慣を形成した。清代の嘉慶年間(1796~1820年)前期、中国から輸出された紅茶のうち85%が正山小種という名前だったことから、その海外市場の広さがうかがえる。 

一方、武夷岩茶は烏龍茶の中の極上品だ。茶農家が武夷山の断崖絶壁を利用し、岩のへこみ、隙間、ひびなどに茶樹を植えたため、武夷岩茶と呼ばれるようになった。武夷岩茶は香り高く、こくがあり、飲むと甘い後味が早く、余韻が長く、独特な「岩韻」があり、無数の茶の愛好家たちを夢中にさせてきた。 

武夷岩茶のうち、最高級品といえば大紅袍である。武夷山大紅袍観光エリアの九龍の絶壁には、大紅袍の母樹が6株生えており、樹齢はすでに360年以上。2006年から、現地では大紅袍の母樹の茶摘みをやめ、専門スタッフによる科学的な管理保護が行われている。最後に摘み取られた20の茶葉は中国国家博物館に収蔵された。現在の大紅袍の茶樹の多くは母樹から挿し木をして無性繁殖したものである。 


上空から見た武夷山の生態茶園 

茶と旅の融合 

福建農林大学根系生物学研究センターの廖紅主任は、01年に初めて武夷山を訪れたときの仙境のような自然風景と空気中に漂う芳しい茶の香りを覚えている。15年に再度武夷山に来た彼女は、そこが記憶とは少し違うことに気が付いた。「環境が以前ほど良くなく、茶の質も落ちたようでした」 

茶産業の発展につれて、人々は生産量を増やそうとし始めた。「過度に茶山を開墾したり、化学肥料や農薬を使いすぎたりすることがたびたびあり、そのせいで、生態環境の破壊や茶葉の品質の低下が起こったのです」と廖主任は振り返る。 

16年に武夷山国立公園体制の施行が始まってから、多くの茶山が国立公園の保護範囲に入れられた。茶葉は同地の人々の最も主要な収入源の一つだが、国立公園の建設は生態環境に対してより厳格に保護することを意味していた。生態を保護しながら、茶農家も発展させる必要があった。 

「自分の研究分野なのだから、その強みを生かして、生態茶園モデルを作り出せないだろうか?」。このような願いを持って、廖主任は武夷山の隅々まで走り回り、さまざまな実験を行った。実験の中で廖主任は、ダイズの根粒菌による窒素固定や、ダイズを緑肥として埋める方法などを使って土壌を改良した。晩秋から初冬にかけてアブラナの種をまき、翌年の春に花が咲いた後、畑に戻して土壌にリンとカリウムを補った。 

「冬にアブラナを植え、夏にダイズを植え、専門的に研究開発した茶樹の有機肥料を与えた結果、その年の茶葉の生産量と品質は明らかに向上しました」 

廖主任の生態茶園モデルはこうして知られるようになった。現地政府の支持の下、武夷山各地の茶園は「茶+林」「茶+草」モデルを推し進め、茶園の生態整備を行うようになった。 

生態茶園建設は茶葉の質を高めただけでなく、観光産業の発展もけん引した。生態茶園に入ると、茶と花の香りが混ざり合い、緑化樹が両側に植えられ、公園で散歩しているかのようだ。結婚写真を撮影したり、製茶を体験したり、武夷岩茶を味わったり、農家料理を食べたり……多くの生態茶園がすでに武夷山のホットスポットとなり、観光客が絶え間なく訪れている。 

生態茶園モデルが不断に改善されるにつれて、保護と発展のバランスを模索する武夷山は、より多くの可能性を開きつつある。 

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