杭州(上) 白壁連なる町潤す豊かな水神秘的な古代文明を探って
袁舒=文
vcg=写真
李昀=イラスト
「江南好し、風景旧より曽て諳んず。日出づれば江花紅きこと火に勝り、春来れば江水緑なること藍の如し。能く江南を憶わざらんや?」「江南を憶う、最も憶うは是れ杭州……」。白居易の『憶江南』の詩は、人々の思いを絵のように美しい江南へといざなう。江南の水郷の中で、杭州は独特な魅力のある存在だ。ここでは川と湖が交差し、水路が縦横に走り、流れる水に架かる橋、山紫水明の魅力的な景色が絵画のように展開されている。ここには古代の良渚文明も秘められており、この中華文明の輝かしい1ページは5000年の時を超えて世に現れ、人々をその神秘的な姿で魅了している。
清楚で素朴な江南の水郷
浙江省の西部に位置する杭州は、銭塘江と京杭大運河の交差点に当たることから、美しい自然環境と豊富な水資源に恵まれている。ここは温暖な気候で四季がはっきりしており、雨量も豊富なため、水運を主体とした交通システムが形成され、江南水郷の民家の風情が色濃い。杭州の運河をたどって古い町を散策すると、小道が静かに延びており、川岸に村が連なり、古い橋が陽の光に照らされて淡い光を放ち、古風な家々と調和している。湖畔の柳の葉が垂れ下がり、水面に映る様子はまるで水墨画のよう。水は杭州の魂であり、江南の水郷の魅力がここで完璧に表現されている。何千年もの間、杭州は多くの文人や詩人を魅了し、無数の観光客を江南の美しさに酔わせてきた。
杭州の人々は純朴なライフスタイルを好む。湖畔で朝の散歩を楽しみ、古い小道の茶屋で濃厚な龍井茶を味わう。梅雨の季節になると、杭州の町は淡い雨の香りに包まれ、濡れた石畳の路上に映える赤い傘は絵に描いた風景そのものだ。
杭州の建築様式と配置にも江南の特色が強く表れている。住宅の外壁は高く、家々が連なっており、火災が発生した場合に火が広がるのを防ぐために防火壁で区切られている。一般的に庭の面積は広くなく、建物が高いことも加わって、風と光を通すための天井が特に高く見える。江南は湿気が強いため、風通しが特に重要だ。そのため、ここでは建物と塀の間に1㍍弱の間隙を設けており、これには風通しと光を取り入れる効果がある。
しかし、建築の大小にかかわらず、江南地方の民家は北方の民家と明らかに異なるところがある。それは彫刻の装飾が非常に多いが、彩色画はほとんどないことだ。壁には白と灰色の瓦が使われ、木材は茶褐色または赤茶色など、北方の華やかな色彩とは対照的に、非常にしとやかかつ上品だ。江南の建築家は変化に富んだ地形と水路を巧みに利用し、水が家々の間を流れるように取り入れ、水路と古い家屋が絡み合う江南の民家独特の風情をつくり出した。
典型的な杭州の建築を見たい場合は、河坊街へ足を運ぶといい。河坊街は杭州で最も古い通りの一つで、多くの宋代の建築が保存されている。時折、漢服を着た若い女性が通り過ぎていく姿を見ると、まるで南宋時代の古い街並みにタイムスリップしたように感じる。ここには特色のある軽食や骨董書画などが集まっており、有名な「五杭」(杭粉、杭剪、杭扇、杭烟、杭線)もここが発祥だ。老舗やさまざまな特色の店舗が100軒ほどあり、石畳の道を歩くと、古風な店舗が年月の痕跡を物語り、中庭では黒いれんがと瓦の建物が透き通った水と調和している。
建築様式にしろ人々のライフスタイルにしろ、杭州の品のある古風な雰囲気はまるで一杯の龍井茶のように淡雅でありながら味わい豊かだ。杭州は中国の十大名茶の一つである西湖龍井の産地でもある。昔、清の乾隆帝は江南を6回訪れたが、そのうち4回龍井茶の産地を訪れ、茶の製造を見学し、茶を味わい、詩を詠んだ。龍井茶を持ち帰り、皇后がそれを飲んだところ、肝の調子が良くなり、この龍井茶はまるで奇薬のようだと喜んだと伝えられている。乾隆帝はすぐ胡公廟の前にある18本の茶の木を「御茶」とするよう命じ、毎年収穫した茶葉が皇后だけに献上されるようにした。それ以来、龍井茶は国内外に広く知られるようになり、茶を求める人々が絶え間なく訪れるようになった。現在、毎年3月末から4月初めにかけて、杭州では「開茶節」が行われ、新茶を用意し、国内外の茶愛好家を招待して茶を楽しむイベントが開催されている。
杭州・富陽の龍門古鎮にある建築
白蛇の愛の物語伝わる西湖
杭州の多くの水系の中で、最も魅力的なのはやはり西湖だろう。西湖は中国四大名湖の一つで、岸には柳の葉が垂れ、蓮の花が咲き誇り、水面には水草がびっしりと生い茂り、小さな船に乗って青い波をかき分けていくと、まるで仙境に身を置いたかのような美しい風景に陶酔する。まさに蘇東坡の詩にあるように、「水光として晴れてに好く、山色として雨もた奇なり、西湖をって西子と比せんと欲すれば、淡粧濃抹てし」そのものだ。
西湖は季節ごとに異なる魅力を放ち、人々を引き付ける。春夏の変わり目には、湖畔の桜が咲き乱れ、ロマンチックなピンクの海が一面に広がる。秋が訪れると、紅葉が火のように燃え盛り、まるで色彩豊かな絵巻の中にいるかのよう。そして昼でも夜でも美しい景色に酔いしれることができる。昼間の湖の光景は水墨画のようで、湖面が光り輝き、柳の葉が風に揺れる。夜になると、湖畔の明かりが水面に映り、夢のような幻想的雰囲気を醸し出す。湖の中央にある「三潭映月」は夜景の最も魅力的な場所で、三つの小島が蓮の花のように連なり、満月の夜には月光が湖面に注がれ、三潭映月島の影と調和する。
西湖は美しい景色だけでなく、白蛇と許仙のラブストーリー『白蛇伝』でも有名だ。伝説によれば、西湖の近くには白蛇と青蛇の2匹の蛇の妖精がいた。人間の許仙に恋をし、美しい白娘子に化けた白蛇は、許仙と夫婦となり、幸せな生活を送っていた。しかし、悪い僧侶の法海が彼らの幸せをねたみ、白娘子を雷峰塔に閉じ込める。許仙は妻を救うために、命を危険にさらして法海を探し出し、白娘子を解放するように頼み込んだ。その結果、白娘子は自由を取り戻して許仙と再会し、また幸せな生活を送ることができたのだった。このロマンチックな愛の物語は、古代の中国人の愛情に対する美しい想像を象徴している。そして後に、西湖のほとりに建てられた雷峰塔は白娘子と許仙の愛情物語の象徴となり、多くの観光客が訪れるようになった。
雷峰塔は西湖のほとりにある古代の塔で、呉越国の王が国家の繁栄と人々の安全を祈るために建てたもので、1000年以上の歴史がある。このれんがと木で造られた塔は高さ約45㍍で、中国南部地域で保存されている最も完全な古代の塔の一つだ。雷峰塔に登れば、高い位置から西湖の絶景を一望できる。
ロマンチックで伝説的な西湖の美しい景色は詩情にあふれ、写真愛好家や観光客を引き付けてやまない。杭州市に暮らす徐楓さんもその一人で、彼は西湖を撮る写真愛好家であり、「橋マニア」でもある。8年前に退職してから、彼はカメラを手に取り、西湖を撮影し、そこに架かる美しい橋の数々をカメラに収めている。季節、時間、位置によって同じ橋がまったく異なる姿を見せることに気付いた徐さんは、これらの橋が西湖をより美しくする絵巻の一部になっていると感じている。「橋のより美しい姿を見つけるため、私は時々低木の茂みに潜り込む『冒険』もします。枝で手を切ったり、靴下を引っ掛けたりすることもよくあります。正直なところ、写真の中の全ての橋が大好きで、それらが存在するからこそ西湖がより美しくなると感じています。いくら年月がたっても、西湖、特に西湖の橋は見飽きることがありませんし、撮り足りないです」
西湖の橋は徐さんが時の流れを記録する媒体であると同時に、彼の西湖への思いを表現するものでもある。湖の美しい光景や古い橋の伝説など、西湖はじっくりと味わうに値する素晴らしい場所だ。
西湖の孤山の雪景色
良渚遺跡の華麗な伝説
杭州というこの美しい江南の地には、魅惑的な歴史――良渚文明が隠されている。この約5300~4000年前の新石器時代後期の文明は、「中国の最初の古代文明」として1935年に発見された。
良渚文化の中心地域は、銭塘江流域と太湖流域で、遺跡の最も密集している地域は銭塘江流域の東部と北東部だ。良渚遺跡の総面積は約34平方㌔で、中心は杭州市余杭区の瓶窯鎮に位置している。
良渚文化の起源は、紀元前3300年から紀元前2300年頃までさかのぼることができる。多くの学者は、良渚文化の誕生した時代に中国の最初の王朝ができたと見ている。この巨大で神秘的な遺跡には城址、墓地、居住地、水利施設などが含まれ、面積は約400㌶で、これまでに発見された最大・最古かつ文化的内容が最も豊かな早期人類集落遺跡の一つである。
良渚遺跡の発掘プロセスで最も驚くべき特徴の一つは、出土した大量の玉器だ。これらの精巧に作られた玉器は、その数と種類、そして技巧の高さによって、見る人を感動させる。玉器の装飾のテーマは神や人間、獣の顔で、良渚の先人の「天人合一」の観念を表しており、この信仰は後に中国の伝統文化の核心へと発展していった。これらの美しい玉器は当時の人々の社会文化レベルを証明するだけでなく、中華文明の発展の重要な象徴ともなっている。
良渚玉器の製作技術に関しては、いまだ解明されていない謎がある。一部の意見では、当時の人々が現地の豊富な玉石資源を利用してこれらの美しい玉器を制作したと考えられているが、同地では大規模な玉石鉱は発見されていない。そのため、これらの玉石ははるか遠くの遼寧や新疆地域から運ばれてきたという可能性を指摘する専門家もいるが、5000年も前の遠隔輸送は容易ではない。これらの精美な玉器がどこで産出したのかという謎は、未来の考古学の発掘に委ねられている。同様に、良渚文明の衰退の原因も未解決の謎のままだ。考古学者は遺跡で多くの砕けたれんがや焼け跡を発見しており、紀元前2200年から紀元前2000年頃に大規模で壊滅的な災害があったことを示すとしている。しかし、どうしてそのような災害が起こったのかについては現在でも明確な答えが出ていない。だが未解決の謎があるからこそ、良渚文明はより神秘的で魅力的な存在となっているのかもしれない。
良渚文明が世界に知られるようになってから100年近くたったが、いまだに私たちの想像に任せられている神秘的な部分が多い。幸いなことに、デジタル時代を迎えた今、良渚遺跡の展示は現代の技術を駆使し、参観者はAR(拡張現実)グラスをかけるだけで、3Dモデルとして復元された鮮明な宮殿をじっくりと眺めることができるようになった。
「良渚古城遺跡には豊かな遺物がありますが、土壁やダム以外の建築の痕跡がほとんどなく、以前、参観者は展示パネルや説明を通じて古代文明を知るしかありませんでした」と良渚古城遺跡公園の責任者・鄭佳さんは言う。しかし、新技術の導入により、ここは臨場感あふれる体験のできる「野外博物館」となった。参観者は5000年前の宮殿が地上に建つ様子を見ることができ、古代の人々と一緒に町を歩き、良渚古城の生活を体験することができる。
小莫角山で四つの家屋の遺跡が発見された。そのうち一つは保存状態が比較的良好で、基礎の溝跡と15の柱穴があった(写真・劉嶸)