古今が融合する歴史都市 夢の大唐時代へ没入体験
『王妃の紋章』『空海』『長安二十四時』『長安三万里』……近年、唐の王朝を題材にした映画やドラマ作品の爆発的な人気によって、3000年以上の歴史を持つ古都・西安に注目が集まっている。かつて秦の始皇帝が中国の偉大な統一を実現した地であり、大唐王朝の栄華が記された地でもある西安の町はロマンの代名詞ともいえる。今日、西安は古代の趣を残しながらも現代的な活力を発揮し、刻々と変化する魅力で世界中の観光客を魅了し続けている。
歴史と詩が織り成す長安
中国西北地方といえば、乾燥した不毛の黄土高原を連想する人が多いだろう。しかし、陝西省の中部に位置する西安市は、北は渭河に面し、南は秦嶺山脈に隣接し、8本の河川が市内を流れ、古来、「八水繞長安(西安の古称)」(八つの川が流れる長安)と呼ばれてきた。滋養豊かな関中平野の肥沃な黄土は、温厚で素朴な人々を育み、かつて13の王朝の都として無数の文化遺産と歴史物語を残してきた。
西安市の中心部に来ると、その建築物から西安の歴史の重みを体験することができる。町全体が鐘楼を中心に築かれ、その周囲を中国で最も完全に保存されている古代城壁が取り囲んでいる。この城壁は、隋・唐時代の城壁の一部をもとに明代に築かれたものだ。一周約14㌔、四隅にやぐら、四方に門、城壁には98の敵楼があり、中国古代都市防衛工学の傑作といえる。城壁の上では散歩やサイクリングができ、うららかな春の午後には、子どもを連れて歩く若い夫婦や、制服姿の学生たちが笑いながら自転車で通り過ぎる姿がよく見られ、のんびりとしたスローライフを描いた絵のようだ。何百年もの間、西安の人々を見守り続けてきたこの風雪を経た城壁に登り町を見渡すと、秦の帝国が中国を統一していた時代にタイムスリップしたような、あるいは唐王朝が繁栄していた時代の光景が目の前に広がっているような感じがする。
城壁が囲む町の中心には、現存する中国最大の鐘楼である明代の鐘楼があり、それを中心に東西南北に4本のメインストリートが伸びている。南大街に沿って南城門を出て、引き続き南へ進み、南二環路を過ぎ、そこから少し東へ行くと有名な仏教建築「大雁塔」がある。大雁塔は唐の高僧・玄奘三蔵がインドから持ち帰った仏典を保存するために建てたものだ。7階建ての塔の高さは64㍍で、各階には精緻を極めた仏像や壁画があしらわれ、玄奘の真筆を展示している。塔の上からは町の全景を一望することができる。塔は7階建てだが、その高さは現代の20階建てのビルに匹敵する。当時の長安において、その雄大さは相当なものだっただろう。大雁塔の周囲には西安最大の広場である大雁塔広場があり、夜になると音楽に合わせた噴水ショーを楽しむことができ、西安の人々の憩いの場となっている。
奈良・京都とのゆかり
唐の時代の長安は、開放的な国際都市であり、シルクロードの起点だったこともあり、東西文明の交流と融合の重要な懸け橋として栄えた。唐の文化的魅力は、海を隔てて2000㌔以上離れた他の二つの古都、奈良と京都にも深い影響を与えた。奈良と京都に都を置いた平城京と平安京は、長安の都市をモデルにして建設された。都城の外観や配置だけでなく、遣唐使が持ち帰った唐の文化や制度も、日本文化の礎の一部となった。
奈良や京都の町並みからは今でも唐の時代の面影を見ることができる。碁盤の目のような町を散策すると、木造の壁に瓦ぶきの低層住宅が建ち並び、唐の時代の面影を残しながら、静かで素朴なたたずまいを見せている。唐の高僧・鑑真が日本に渡って教えを広めるために建立した唐招提寺は、日本の国宝にも指定されており、「日中友好の寺」としても知られている。奈良の寺院からは、中国から伝わった経典を日本語で読む声が響く。奈良や京都を訪れる中国人が、いつも親しみとくつろぎを感じるのはそのためだろう。
今から50年前の1974年、西安市は奈良市、京都市とそれぞれ姉妹都市を締結した。これによって3都市はより親密になった。それから半世紀がたった今も、3都市は文化遺産の保護や文化交流において緊密な協力関係を保っている。
名詩で触れる古都の過去
西安はかつて中国史上最も栄えた都であり、無数の文人墨客がこの地を訪れ、数々の名作を残した。彼らは詩によって西安の風物を記録し、個人の感情や抱負を語った。大雁塔から南へ延びる唐代建築を模した歩行者天国「大唐不夜城」では、木々に詩の文字をかたどったライトがぶらさげられ、目に映る一句一句が詩人たちの精神世界や、かつてここで起こった過去の出来事へと導いてくれる。
杜牧(803~852年)は長安に生まれ、長安で育った「長安の貴公子」であり、粋で風流な生き方の下に、繊細な感情表現と国や人民を思いやる精神を持っていた。彼はかつて有名な『過華清宮絶句三首』で「長安廻望繍成堆、山頂千門次第開。一騎紅塵妃子笑、無人知是荔枝来。(長安より廻望すれば繍堆を成す。山頂の千門次第に開く。一騎の紅塵妃子笑う。人の是れ荔枝の来るを知る無し)」(訳:長安から東の驪山を見れば、まるで錦の小山のようだ。宮殿はひしめき合って、山の頂まで並び立つ。砂煙をまいて一騎の馬、楊貴妃はにっこり笑う。それがライチの到着とは、誰も知らないだろう)と楊貴妃のぜいたくな生活の描写から、唐王朝が衰退に陥ろうとしている状態への懸念を語った。
唐の玄宗と楊貴妃の切ない恋物語もまた、長安にロマンの色彩を加えている。二人の愛の悲劇を描き長く語り継がれている白居易(772~846年)の『長恨歌』もまた、唐の栄華と衰退への複雑な心情を表した名編だ。
迴眸一笑百媚生、六宮粉黛無顔色。(眸を迴らして一笑すれば百媚生じ、六宮の粉黛顔色無し)
春寒賜浴華清池、温泉水滑洗凝脂。(春寒うして浴を賜ふ華清の池、温泉水滑らかにして凝脂を洗ふ)
……
六軍不発無奈何、宛転蛾眉馬前死。(六軍発せず奈何ともする無く、宛転たる蛾眉馬前に死す)
花鈿委地無人収、翠翹金雀玉搔頭。(花鈿地に委して人の収むる無し、翠翹金雀玉搔頭)
君王掩面救不得、迴看血涙相和流。(君王面を掩ひて救ひ得ず、迴り看て血涙相和して流る)
訳:
視線を巡らせてほほ笑めば、そのあでやかさは限りない。宮中の奥御殿にいる女官たちは色あせて見えた。
(彼女は)春まだ寒い頃、華清池の温泉を賜った。温泉の水は滑らかで、きめ細かな白い肌を洗う。
……
軍隊は進まず、どうにもできない。美しい眉の美女(楊貴妃)は、馬の前で命を失った。
螺鈿細工のかんざしは地面に落ちたままで、拾い上げる人はいない。カワセミの羽の髪飾りも、孔雀の形をした黄金のかんざしも、地に落ちたまま。
君王は顔を覆うばかりで、救うこともできない。振り返っては、血の涙を流した。
長安の繁栄は千年の歳月をかけて築き上げられたものだが、繁栄から衰退に変わるのはわずか数年だった。安史の乱で長安の人口が3分の2に激減し、戦乱で東西の水路が封鎖されると、その繁栄は瞬く間に消えていった。玄宗皇帝と楊貴妃の愛の象徴であった華清宮は、唐王朝の栄枯盛衰を目の当たりにした。華清宮は唐代初期に建てられ、玄宗皇帝の治世になって栄えた。玄宗皇帝はほぼ毎年旧暦の10月に宮殿を訪れていた。安史の乱の後、政情が急変し、玄宗が皇帝の座から転落すると、華清宮への訪問は急速に減少し、唐代以降の皇帝が華清宮を訪れることはほとんどなかった。
華清宮に足を踏み入れると、大浴場が唐の玄宗と楊貴妃のぜいたくな生活をしのばせる。そして、裏山の小亭は楊貴妃が髪を乾かした場所と言われている。当時の繁栄と富の限りを享受した楊貴妃が、この小亭に登って夜空の月を前にしたとき、自分の生涯と唐の栄華が幕を閉じる日が来ることを思ったかどうか……それは誰にも分からない。
始皇帝守り続ける地下軍団
西安の人々はいつも「西安は地下鉄建設が最も遅い都市だ」と冗談を言う。なぜならこの地には地下に眠る遺跡が多すぎるからだ。地下鉄8号線の建設中には1356基の墓が発掘され、2号線の市立図書館駅ではわずか1駅で500基以上の墓が発掘された。鐘楼駅はいっそのこと駅をそのまま小さな博物館にしてしまい、地下鉄の建設中に掘り出された文化財をその場で保管して、一般公開している。
驪山の麓にある秦の始皇帝陵は、大一統を果たした皇帝にふさわしい壮大なスケールで、後世に多くの謎を残している。その中で最も有名な文化財といえば兵馬俑である。
今年はちょうど兵馬俑発掘50周年の節目の年だ。1974年3月29日、西安市臨潼区楊家村の農民が井戸を掘っていたところ、偶然陶製の人形の頭部やれんが、瓦を発見した。これにより、2000年以上も隠されていた秘密が世間に公開された。兵馬俑は秦の始皇帝の副葬された軍隊だ。巨大な埋葬坑には、無数の陶製の人や馬が整然と並び、まるで本物の軍隊のように、総司令官の命令を待って静かにたたずんでいる。立っている者、ひざまずいている者、弓を引いている者、馬に乗っている者、堂々としている者、真剣な表情をしている者……彼らは生きた人間のようであり、それぞれに個性と人生を秘めているようだ。兵馬俑坑の上に設けられた見学通路に立って、この静かで強靭な軍隊を眺めていると、秦の大軍団の轟音と突撃音が聞こえてくるような気がする。
兵馬俑坑は、兵馬俑を展示する場所であると同時に、文化財修復の作業現場でもある。ここは手術室のようになっており、ベッドに横たわった兵馬俑が修復を待っている。メスや小さなブラシを手に、考古学の専門家たちは出土した破片に付いた土をミリ単位で取り除き、何百もの陶器の破片をつなぎ合わせて頑丈な兵士の人形に修復していく。
レンズ通し兵馬俑と語り合う
見学中、一眼レフカメラを持って兵馬俑の写真を撮っている男性に出会った。文化財撮影家の趙震さんだ。25年来、兵馬俑の発掘作業と文化財を撮影し、カメラで兵馬俑一体一体の顔を記録し、文化財番号を登録してきた。
趙さんは毎日出勤前に入浴を済ませて服を着替える。そして小さな道具がたくさんぶら下がったエプロンを着けて、一眼レフカメラを持って兵馬俑坑に入る。「兵馬俑にはそれぞれ鎧があります。私の鎧はこのエプロンとカメラです」と誇らしげに語る趙さん。最高の撮影アングルを見つけるために、一日に数百回以上、膝をついては立ち上がる動作を繰り返す。一日の仕事が終わると、黒いジャージは灰色の土まみれになり、まるで自分も兵馬俑の一員であるかのようになる。
「レンズ越しに兵馬俑の目を見ると、その軍人の息遣いが伝わってくるようです。その瞬間、兵馬俑はもはや冷たい人形ではなく、感情や血統を受け継ぐ私たちの祖先なのです」と趙さんは感慨深げに言う。
趙さんは、ある仕事での出来事を話してくれた。兵馬俑の顔を撮影していたとき、偶然その兵馬俑の唇に人の指紋が焼き付いているのを発見した。「それは2200年前にその兵馬俑を作った職人の指紋なんです。その瞬間、私は時間が消えたように感じました。私はまるでその職人と同じ時空にいて、彼と対話をしているようでした」。そう語る趙さんの目には涙が浮かび、声は震えていた。言葉では言い表せないほどの衝撃と感動だった。
趙さんの父も兵馬俑博物館のスタッフで、子どもの頃、兵馬俑の周りで忙しく働いている父親を兵馬俑坑のふちから見て、とても羨ましかったそうだ。十数年後、彼は彼らの一員になった。
兵馬俑の発掘作業には、始まりはあるが、終わりはない。何世代にもわたる考古学者たちは、堅い信念を胸にこれからもこの長い道のりを歩んでいく。
古い町の新しい魅力
歴史が西安の町を重厚にし、文学が西安の町をロマンチックにするならば、美食は西安の町を愛おしくさせる。
西安の土壌と気候は小麦の生育にとても適しているため、西安料理は小麦粉料理を主としている。寛麺(太い麺)、細麺(細い麺)、棍棍麺(棒状の麺)、褲帯麺(ベルトのように幅の広い麺)、油潑麺(油かけ麺)、臊子麺(ひき肉のかけ麺)……西安人は麺の食べ方を限りなく多彩化していると言える。西安に来たら、まず太ることを覚悟しなければならない。ここはまさに「炭水化物の天国」なのだから。
油潑麺(油かけ麺)は西安の麺料理を代表する一品で、地元で採れたピリ辛の唐辛子とコシの強い麺に熱々の油をかけると、たちまち濃厚な香りが辺り一面に漂う。
西安では、何でも「饃」(小麦粉や雑穀で作るパンのようなもの)と一緒に食べる。まず定番の「肉挟饃」は外せない。しっかりとした食感の「白吉饃」に肉汁の香りがしみ込み、一口、また一口と止まらなくなる。「羊肉泡饃」は西安人の精神的シンボルともいえる。本場の西安レストランで羊肉泡饃を食べるとき、出てくるのはスープ入りの饃ではなく、一枚丸ごとの硬めの「飥飥饃」である。客は自分で饃を豆粒大に小さくちぎってお碗に入れ、カウンターへ持っていきスープを注いでもらうのだ。
この饃をちぎる動作、一見簡単だが実は難しい。初めて食べる観光客は、こつが分からず、ちょっとちぎるとすぐに指が疲れる上、大きさ形もばらばらだ。隣のテーブルに座る西安っ子を見てみると、慣れた手つきで饃を爪の大きさに均一にちぎっており、おしゃべりを楽しみながら、一枚の饃をあっという間にかけらに変えていった。西安人にとって饃をちぎる時間は、広東人にとってのヤムチャのようなものであり、家族、近所の人たちが連れ立って、饃をちぎりながら世間話をして、人と人との絆が深まっていくのだ。
古代と現代交わる新スポット
西安は、古代と現代、歴史の重みと流行とが融合した都市であり、古代の唐風と現代的な要素との絶え間ない融合によって、人々は最も快適な生活様式を見いだしてきた。この独特な郷土色もまた、全国からの客を引き付けてやまない。唐代スタイルの漢服を着て西安の歴史建造物の前で写真を撮ることは、若い観光客の間での流行となっている。
夜のとばりが降り、町に明かりがともると、西安は長安へと一変する。地下鉄に入ると不思議で面白い光景が目に入る。漢服を身にまとった若い男女が、科学技術を駆使した金属製の地下鉄車両に乗り込んでいく。まるで1000年を超える時空がここで交錯しているかのようだ。
色彩豊かな大唐不夜城では、詩の書かれたライトの下を歩いていると、唐の「仕女」とすれ違ったり、「李白」が明かりの下で観光客と詩を詠んでいるのを見掛けたりする。木製の建物につるされた赤いちょうちんは風に揺れ、人々は手にキンモクセイの餅やちょうちん、うちわを持ち、まるで唐の時代の元宵節に長安の人々が着飾ってちょうちん祭りへ出掛けているような光景を醸し出している。この瞬間、歴史と古文化が西安の日常に鮮やかに息づいているのを感じることができる。
若者の増加により、西安には近代的なショッピングモールや、独自の特徴を持つクリエーティブエリアが数多く出現した。かつて廃工場だった場所や荒廃した古い路地は、若者がコーヒーを飲んだり、バザーを開いたり、音楽を聴いたりする文化的なレジャーの集いの場へと姿を変えた。西安の町を歩けば、木陰のカフェの外で談笑する観光客の姿が見られ、夜になれば、城壁のアーチ型の門の下で、市民や観光客がストリートバンドの演奏を聴きに集まっている。社交好きな若者たちは城壁の中のバーで酒を飲み、壮麗な城楼の下の娯楽の場は未来感に満ちた青いライトで照らされている。歴史と現在、幻想と現実、感情と快楽がぶつかり合って生まれた、西安という町独自のドーパミンが人々を楽しませている。