名詩で巡る地上の天国 友好つなぐ寒山寺の鐘

2024-05-16 16:53:00

李家祺=文 vcg=写真 

古くから「姑蘇」と呼ばれる蘇州は、長江の南の平野部に位置し、上海から高速鉄道でわずか30分ほどの距離だ。だが、ここには上海とは異なる気風がある。 

蘇州人の足取りはいつもゆっくりとしている。朝、白壁に黒い瓦ぶき屋根の2階建ての建物が立ち並ぶ旧市街。早々に食材を買い終えたおばあさんたちは、急いで家に帰るのではなく、集まって世間話をしている。出勤する若者も、ゆっくりと湯面(タン メン)を食べ終えてから、EVスクーターに乗って去っていく。路地の隅では、おじいさんが木の下に座ってのんびりと新聞を読んだり、茶を飲んだりしていて、ラジオからは蘇州評弾(三弦や琵琶の伴奏で蘇州方言を用いて地方の物語を歌う演芸)が流れている。籐椅子の足元に丸まった猫は、行き来する人々を気にせずすやすやと寝ている。 

「上には天国、下には蘇州杭州がある」ということわざがあるが、つまり、蘇州はまるで天国のように美しいところだという意味。13世紀、イタリア人冒険家のマルコポーロは、蘇州を「東洋のベニス」と呼んだ。さらに、歴代の文人たちも、この町を愛し、2500年以上にわたる歴史の中で、蘇州を詠んだ数多くの詩を残した。 

庭園の都

蘇州といえば、多くの中国人がまず庭園を思い浮かべるだろう。 

「蘇湖熟すれば天下足る」。唐(618~907年)宋(960~1279年)以来、全国経済の重心は長江中下流域の太湖平原に移ったが、その太湖平原の中でも蘇州は最も豊かな地だった。裕福で高尚な趣味の文人が多く集まり、私家庭園を建てることが流行となった。今でも、蘇州に現存する庭園は100カ所以上ある。 

日本人にとっては、北京を代表とする壮大な皇家庭園より、蘇州庭園にもっと親近感が湧くかもしれない。限られた空間に洗練されたデザインが施され、軸線と対称を求めず、自然の山水を模した景色や、白灰など渋い色合いの建築を特徴としているからだ。 

散策しながら景色を堪能 

名園拙政冠三呉、遠溯前明創造初。 

訳:拙政園は長江下流域で最も名をはせる名園で、その歴史をたどれば明の時代(13681644年)に建てられたのが始まりだ。 

これは、清代(16441911年)の文学家教育者である兪樾(ゆえつ)が書いた詩『拙政園歌』の一節。 

蘇州にとっての拙政園は、北京にとっての故宮のようなもので、蘇州最大の古典庭園であり、初めて蘇州を訪れる人が見逃してはならないスポットだ。同園は、官界に失望した明朝の役人王献臣が故郷に戻り、16年かけて造園したのが始まりとされる。敷地面積は5万2000平方で、東京ドームよりやや大きい。東西の3部分からなっており、遊覧ルートは東から西へと設定されている。 

日本の作家村松梢風(1889~1961年)はかつて、中国と日本の庭園には、趣の違うところがあると指摘し、「日本の庭園は、家の内部から、座敷に座って見るべき庭」と書いた。一方、中国の庭園は外に出て、見て、体験するのに適している。拙政園はまさにそのような庭だ。園内を歩くと、歩みを進めるごとに景色が広がっていき、さまざまな魅力が感じられる。 

人波に乗って園内に入り、傾斜のある石畳の道に沿って進むと、東園のメインホール蘭雪堂に着いた。 

「ママ、見て! あのガラス、割れてるみたい!」と叫ぶ幼い声が聞こえてきた。近づいてよく見ると、窓ガラスが無数の小さな三角形に格子で分けられ、砕かれた氷のようになっている。さらに特別なのは、格子に小さな梅の花が彫られていて、建物の外の竹が窓に映ると、竹と梅が描かれた絵画のように見えることだ。 

蘭雪堂を過ぎると、深い緑のやぶに囲まれた大きな築山があった。それは下から上へと徐々に大きくなる形で、頂上は雲のようで視界をほぼ完全に遮っている。これは「障景」と呼ばれる造園技法で、その先には一体どのような素晴らしい景色があるのか、好奇心をそそられる。 

この築山を迂回(うかい)すると、一気に視界が広がった。澄みきった青々とした池の中、魚がゆらゆら泳ぎ回り、カモが数羽のんびりと波を立てながら浮いている。池の周囲には整然とした石造りの岸はほとんどなく、高低がまちまちで自然のままだ。 

東園から中園に行くには、長い回廊を通る必要がある。回廊の壁には20以上の透かし窓があり、それぞれ異なる光景が見える。こちらの窓から見ると、正面にある白い壁がキャンバスになり、そこには日光によって金の縁が現れた数本の真っすぐな竹が描き出されている。また、そちらの窓から見ると、曲がりくねった枝に沿ってフジの花が垂れ下がっていて、そよ風が吹くと、紫の花が押し合いへし合いして、とてもにぎやか――というふうに、歩みを進めるごとに変わる景色の醍醐味を感じられる。 

拙政園は、庭園全体の60%が水。中園の入り口の門をくぐって、西の方を眺めると、広大な湖に「荷風四面亭」と呼ばれる、軒先が反り上がった六角形の屋根を持つあずまやが柳に囲まれて立っている。さらに遠くには、八角形の塔が大半の姿を出している。これは実は、園外1のところにある「北寺塔」で、三国時代の孫権が養母の恩に報いるために建てたもので、1700年以上の歴史があるとされる。ここは中国の庭園の中で最高の「借景」といえるかもしれない。私家庭園では造ることができない塔を取り込むことによって、庭園の景色がより奥深く見えるようになっている。 

拙政園の借景が良いのは、この都市の歴史文化保護における決意のおかげだ。製造業が発達した蘇州は、昨年の地域内総生産(GRP)が2兆4000億元を超え、中国の都市で6位。それにもかかわらず、古風な町の景色は近代化の進展によって消滅していない。拙政園があり、文化財が集まる姑蘇区古城を保護するために、蘇州はさまざまな対策を講じた。例えば、古城中の全ての建物は、高さが北寺塔の3階(24)を超えてはならず、色は白灰の3色をメインとしなければならない。バス停さえも古都の風景に溶け込ませるために、アンティークな軒廊(屋根付きの渡り廊)になっている。 

茶を味わい浮世の悩み忘れ 

隔断城西市語嘩、幽栖絶似野人家。 

訳:町西部の市街地の騒々しさから離れ、静かで幽玄とした様子はまるで郊外に位置しているようだ。 

拙政園は美しいが、観光客が多すぎるという欠点もある。清代の文学者は詩の中で、そこまで広く知られていない庭園芸圃を勧めている。 

都会の中にひっそりとたたずむ芸圃までは、拙政園近くのバス停から4駅、降りてからさらに少し歩かなければならない。スマートフォン(スマホ)のナビに導かれ、何度も道を曲がって路地に入ると、両側には低い蘇州式の民家がずらりと並び、ドアの中から柔らかい蘇州方言が聞こえてきた。途中、数人の観光客らしい人たちに出会ったが、同じくスマホを持ってうろうろしており、道に迷っているようだった。 

さらに南へ曲がり、「文衙弄(ウンヤーロン)」という裏路地の入口にたどり着いた。黄ばんだ白壁にスプレーで書かれた色あせた「芸圃」の2文字と矢印があり、そこから数歩進んでやっと芸圃が見えた。 

芸圃の正門は地味なもので、両側の石柱も古びてまだらになっている。あくまでも古代の多少裕福な一族が残した古い邸宅にすぎず、まさか拙政園と同じく世界遺産だなんてことはとうてい想像できない。だが、中に入ると、一風変わった光景が広がる。両側の黒い瓦屋根と白壁の下の草むらから藤の木が生え、壁に沿って屋根まで伸びており、その細いつるが晩春に満開になったバラの花で垂れ下がって、ピンクの「滝」のようになっている。 

400年以上の歴史を持つ芸圃は、歴史の変遷を経ても、大きな変化はなかった。それはもちろん、歴代の主人たちが大切にしてきたためであり、1970年代に蘇州市政府が同園の修復を手掛けたとき、昔の状態そっくりに修復するという原則に従って行ったからでもある。 

バラが生い茂る曲がりくねった路地を通り抜け、表広間の世綸堂を過ぎると、庭園の中央池がある。芸圃全体は約3300平方で、住宅と庭園の二つの部分に分かれている。機能エリアを塀で区切る他の庭園とは異なり、芸圃の多くの広間や堂は水に隣接している。池の東にある小さなあずまやに立って眺めると、真正面の対岸は細長い「響月廊」で、南には築山や曲橋があり、数人の観光客が小道に沿って小山を登り下りしていた。北にはガラス窓が一面に並び、水面の光がきらきらと反射している。そこは「延光閣」という茶室だ。 

延光閣に入り、窓際の椅子に座った。隣の2人のおじいさんは常連らしく、メニューを見ずに慣れた様子で碧螺春(へきらしゅん)(蘇州特産の有名な緑茶)を注文した。話を聞くと、「わしらは近くに住んでいて、もう定年していてね。芸圃の入場料は安いし、友達を呼んでよくここに来るんだ。『偸得浮生半日閑』(慌ただしい日々の中でひとときの安らぎを得る)というやつだね」とのことだった。どうやら、蘇州の庭園が詩的なだけでなく、蘇州人の話し方からも、詩心が感じられるようだ。 

中日交流を見届けた古寺 

月落ち(からす)()いて(しも)天に満つ 

江楓の漁火(ぎょか) 愁眠に対す 

姑蘇城外 寒山寺 

夜半の鐘声 客船に到る 

唐の詩人張継のこの詩『楓橋夜泊』によって、蘇州の寒山寺は、中国でも日本でも広く親しまれるようになった。 

寒山寺は姑蘇区の最西端、京杭大運河沿いに位置する。芸圃から寒山寺までは車で約15分。車を降り、まず目に入ったのは杏色の塀で、その上に「寒山寺」という緑色の三文字が刻まれた大きな石刻がはめ込まれている。 

山門から北へ50進み、鉄鈴関を通り抜けると、三日月のような石のアーチ橋が大運河に架かっている。それが、あの有名な楓橋である。 

唐が最盛期を迎えた頃、社会の矛盾が激化し「安史の乱」が勃発。多くの文士が蘇州に避難し、その中に張継もいた。 

ある秋の深夜、月は西に傾き、烏が鳴いて、霜の気が空いっぱいに満ち、寒さが体に染み込む。詩人が乗った舟が、楓橋に泊まり、船窓から見やれば、紅葉した川辺の楓、明々と輝く漁火が、目の前に鮮やかに浮かぶ。折しも、船まで聞こえてくる寒山寺の鐘の音。なんとこれは夜半を告げる鐘ではないかと、旅愁が誘われる。 

その後、多くの文人がこの地にたどり着き、詩を残した。日本でも大阪府箕面市と東京都青梅市に、『楓橋夜泊』に感銘を受け建立された寺院がある。 

1979年、大阪府池田市日中友好協会の藤尾昭名誉会長(故人)が訪中団を率いて蘇州観光に訪れた際、蘇州市外事弁公室の呉増璞主任(当時)が寒山寺参観に同行した。双方は中日仏教交流や、除夜の鐘音を聞き、煩悩を取り除き、無事を願うという両国共通の風習などについて興味津々に語り合い、そこから寒山寺の除夜の鐘を聴くイベントを開催する発想が生まれた。 

同年1231日、藤尾氏は約90人からなる第1陣の「寒山寺の除夜の鐘を聴く」訪問団を率いて蘇州へ。以来、同寺の除夜の鐘を聴くイベントはすでに45回開催されており、中国や日本をはじめとする各国の人々など、数万人の観光客が毎年、寒山寺を訪れ、除夜の鐘を聴いている。 

洗練された食生活

古くから豊かな暮らしに恵まれた蘇州では、洗練された食文化が生まれた。 

旬の味合わせる蘇州湯麺(タンメン) 

三鮮大面一朝忙、酒館門頭終日狂。 

天付呉人閑歳月、黄昏再去闖茶坊。 

訳:朝いち早く三鮮麺を味わい、飲み屋で時間をつぶす。蘇州の人々は、のんびりした暮らしに恵まれており、たそがれ頃にまた、茶屋へ茶を味わいに行く。 

芸圃から南へ約200進むと、呉趨坊に着く。ここは長さ1 足らずの古い街で、一方通行の道の両側に地元の人々がよく訪れる飲食店が立ち並んでいる。 

清代の章法が上記の詩に書いたように、蘇州人は朝食に麺類を食べる習慣がある。長江の北の地域の麺と異なり、蘇州の湯麺は細麺がメインで、つゆは琥珀のように透き通っていて甘みがあり、さまざまなトッピング(8)をかけて食べる。 

朝早く、呉趨坊の老舗の麺店に足を踏み入れると、中はもう人でいっぱいだった。 

「えっと、タケノコ麺一つ。寛湯(クァンタン)硬麺(インミエン)過橋(グオチャオ)免青(ミエンチン)でください」と、 店の奥のレジカウンターから注文の声が聞こえた。これらは地元の人が麺を注文するときに使う「隠語」だ。「寛湯」とはつゆ多めで麺少なめ、「緊湯(ジンタン)」はその逆。また、「重青(ジョンチン)」はニンニクの葉を多く入れることで、「免青」はなし。「過橋」とは、トッピングを直接麺にかけるのではなく、別皿で出すことを意味する。 

ここから蘇州人は麺を食べることに、かなりこだわりがあることが分かる。それだけでなく、「麺は最初のつゆが一番いい」といわれ、煮込んだ最初のつゆは色が一番澄んでいて、味も一番新鮮なので、朝早く食べに行くのがいい。それから、トッピングも、春にはタケノコ麺、初夏にはフウセイ麺、秋にはスズキ麺など、旬の味を合わせるのが最高だ。 

店内は狭く、テーブルが六、七卓しかないため、知らない人と相席になることは避けられない。隣に座った蘇州のおばあさんは、肌がきめ細やか(9)60代に見えたが、声を掛けてみたら、なんともう80代とのことだった。「朝は麺を1杯食べて、めんつゆを飲むと、一日元気に過ごせるよ!」と、ほほ笑みながら教えてくれた。 

こだわり詰まった秋の味覚 

蟹因霜重金膏溢、橘為風多玉脳鮮。 

訳:秋の霜が降りてカニみそがあふれるほどカニが肥えて、秋風が吹いてミカンも一番おいしい季節を迎えた。 

蘇州は海辺の都市ではないが、川や湖に囲まれ、川で捕れる魚介類がたくさんある。その中で最も有名なのは、陽澄湖産の「大閘蟹(ダージャーシエ)」(陽澄湖が上海の近くにあることから、日本では「上海ガニ」の愛称で呼ばれている)だ。上記の詩は、唐末の詩人皮日休が蘇州で官吏を務めたとき、秋に熟した大閘蟹のおいしさを詠んだものである。 

蘇州人は昔から、大閘蟹を食べるときのこだわりがある。蒸しガニを食べる際には、カニを解体して食べるための八つの道具「蟹八件」が必要だ。 

カニがテーブルに出てきたら、小さな四角い台の上に置き、丸ハサミで二つの大きなはさみと8本の足を切り落とす。次に小さなハンマーでカニの殻の周りを軽くたたき、柄の長い斧で背の殻とへそを割り、それから、タガネ、ピンセット、フォーク、ハンマーを使って、黄色いみそと真っ白で柔らかい肉を取り出して食べる。清の時代、蘇州の女性が結婚する際に必要な嫁入り道具の一つが「蟹八件」だったと言われる。  

陽澄湖は大閘蟹で有名だが、カニの養殖で悩まされていた時期もあった。漁師の顧梅根さんは陽澄湖のほとりに住んでいて、長年大閘蟹の養殖に携わってきた。彼の話によると、以前の陽澄湖は養殖エリアが混雑しており、自分の網を見つけられないこともあったという。「カニに餌をやるときにも自分の経験ばかりに頼ってむやみにやっていて、食べられるものはなんでも湖に投げていたんだ」 

陽澄湖の養殖面積は一時、湖面積の568%を占めていた。過剰かつ無秩序な養殖により富栄養化と水質低下の問題が生じ、乱獲10)により漁業資源が大幅に減少した。 

陽澄湖の生態を回復させるために、蘇州市は陽澄湖の囲い網養殖に対して、科学的に整え、自然水域の面積を増やし、地元の稚魚種を放流して水草の抑制し、陽澄湖の水質を大幅に改善させた。 

「今では、それぞれの漁業者の囲い網の範囲が確定され、内部には微孔酸素供給設備も整備されました。また、科学的な指導に従ってカニに餌をあげています。私はよく研修に参加し、養殖の問題について専門家と話し合っていますから、いつか自分も専門家になれるかもしれませんね」と、顧さんは冗談っぽく話した。 

現在、陽澄湖の水面は鏡のように澄みきり、大閘蟹もさらに新鮮でおいしくなっている。 

人民中国インターネット

 

関連文章