砂漠の暮らし潤すマカーム 市場にぎわう東西交易の町
タリム(塔里木)盆地のタクラマカン(塔克拉瑪幹)砂漠はどこまでも続く乾いた黄色の世界だ。しかし、飛行機で盆地の西端に向かうと、窓越しに、遠方の山脈の真っ白な雪、氷河、深い峡谷が見え、飛行機の翼の下では、巨大な扇状地(川が山から流れ出る所にできる扇形の堆積地形)の上に道路が縦横に走っている。このような強烈な対比のある風景がカシュガル(喀什)に着いたことを教えてくれる。
新疆ウイグル自治区カシュガル地区は、カシュガル市(地区政府所在地)、10県、1自治県を管轄している。西はパミール(帕米爾)高原にかかり、東はタクラマカン砂漠に連なり、昔、川の流れに沿って形成されたオアシスでは、人々が耕作や放牧を行い、砂漠と共存することを学び、輝かしい文化を生み出した。そして現在、この歴史ある土地では、多民族が融合・共生し、新たな物語を紡いでいる。
多文化融合の「ユーラシアの中心」
冬の北京時間午前9時。カシュガルの空はまだ暗く、道端の商店のドアは固く閉ざされ、夜の気配が冷たい空気と共に重く立ち込めている。
まず夜の気配を破ったのは道端の露天のタンドールの中に起こされた火だった。紺色の空の下、オレンジ色の炎がタンドールから上がり、遠くからでも熱による空気の揺らぎが見える。店員たちは店の掃除をしつつ、たまに火の強さを確認し、長い鉄の棒を使ってサムサ(羊肉のミートパイ)をタンドールの壁に貼り付ける。しばらく待てば、焼き立てサムサの出来上がりだ。
未発酵の生地で作られた外皮はつややかな金色に焼け、中には、さいの目切りの羊肉、タマネギ、クミンパウダーなどを混ぜて作ったあんがたっぷり、形は長方形で、「背中」はぷっくり盛り上がっている。熱いうちにカリッと頬張れば、薄い外皮が破れ、羊肉とクミンの香りが口の中いっぱいに広がり、体に早朝の寒さに対抗する力を与えてくれる。
クミンは、カシュガルの焼き肉および他の焼いて作る料理において欠かせない香料で、言い伝えによるとアラビア地域発祥で、ペルシャを経てこの地に伝わったという。
カシュガルは中国の西の果てにあり、北京から約4000㌔離れている。だが、世界地図を広げると、この中国最西端の町がユーラシア大陸の中心地帯にあることが分かる。古いシルクロードは東から西へ向かってタリム盆地に入り、南北2ルートに分かれ、タクラマカン砂漠を迂回して、最後にカシュガルで合流、また、ここのいくつかの峠からパミール高原を越え、インド、イラン、欧州などへとつながっていた。2000年余りの間、ここはずっとシルクロード上の経済・貿易の重要な商業都市で、ユーラシア大陸上の各種文明もここで交わった。カシュガル人の生活に入り込むと、至る所でこのような文明の融合の跡を見つけることができる。
カシュガル市のカシュガル古城にある古い茶館では、来客が茶を飲みナンを食べながら友人と談笑している。茶館の演奏者が音楽を奏でると、歌や踊りが得意なカシュガルの人々がそれに合わせて踊り始める。昔、シルクロード商人が江南の茶葉をもたらし、喫茶は徐々に現地の人々の伝統になり、これまで続いてきた。
古城の街角を歩くと、アトラス(新疆の特色ある生地で、一種の絞り染めのシルク)の伝統的な衣装とジーンズや洋服が並べて売られ、新疆焼き肉店とカフェが全く違和感なく隣り合い、ウイグル族のメシュレップダンス、チベット(蔵)族の鍋荘舞、タジク族の鷹舞、ダイナミックなストリートダンスが同じ舞台で披露されている。異なる民族、異なる風習の人々がここで共に生活し、打ち解け合っている。
古城を貫くいくつかの主要な道には、正式な名前以外に、別名が表記されている。観光客が集まるオルダシク(欧爾達希克)通りは「ハン・バザール」と注記され、商店が林立するクムダルワザ(庫木代爾瓦扎)通りは「職人バザール」とも呼ばれ、ずらりと並んだ骨董品店によってエグジエリク(艾格孜艾日克)通りは「骨董バザール」に変わった。弓のように曲がっているアルヤ(阿熱亜)通りはいくつかの区間に分けられ、それぞれ「帽子バザール」「ウイグル族医薬バザール」「鍛冶屋バザール」などと呼ばれている。
「バザール」は「市場」という意味だ。シルクロード上の東西の貨物が交流・往来する場所として、カシュガルでは専門化の程度が高い大小さまざまな市場が形成され、町の至る所に分布しており、食べ物から衣服、日用品、農具、楽器まで、なんでもそろう。
ハン・バザール(「国王の市場」という意味。昔ここはカラハン朝の皇居の所在地で、今は現地の各種伝統料理が集まる)の向かい側には、カシュガルのランドマークであるエイティガールモスクがある。盛大な伝統的な祝日の期間中、モスク前の広場には大勢の人々がお祝いに集まり、音楽に合わせて踊る光景は非常ににぎやかで、まさに「エイティガール」の意味である「祝日に喜び祝う場所」の通りだ。
建築の面から見ても、エイティガールモスクは文化融合の素晴らしい例だ。正面の門楼は黄色れんがを積み重ねて造られ、白い石こうで縁取られており、一対の高くそびえるミナレットが両側にあり、濃厚な中央・西アジアの風情を漂わせている。モスクの中に入りよく見ると、装飾デザインに如意、「万字符(卍つなぎ)」、ハスの花といった仏教要素が融合しているのが分かる。壁にある彫刻入りの木製の窓は典型的な中原様式で、中国文化において円満や吉祥を象徴する「団花紋(花を描いた円形の模様)」をあしらったじゅうたんには、光がまだらに落ちている。
地形の「博物館」
地形の多様性からいえば、中国でカシュガルと比べられる場所はおそらくないだろう。ここでは海洋地形のほか、雪山、氷河、高原、盆地、ゴビ(礫質砂漠)、砂漠、河流、峡谷など、地球表面のほぼ全ての地形の類型を見ることができる。
高く大きな山脈と巨大な盆地の組み合わせがカシュガルの地形の多様性を作り上げた。地図上で見ると、カシュガル地区は両端が大きく、中間がやや細い「アレイ形」をしている。北には平均海抜約4000㍍の天山南脈が横たわり、西にはパミール高原がそびえ、南には平均海抜5500㍍のカラコルム(喀喇崑崙)山脈がある。南北の山脈の間には、世界最大級の内陸盆地・タリム盆地が広がっている。盆地中央のタクラマカン砂漠は世界第2の流動性砂漠だ。
同じ砂漠でも、タクラマカン砂漠は全世界的に有名なサハラ砂漠と比べて大きな違いがある。サハラ砂漠は中央が高く、四方が低く、奥地には川がなく、植物がほとんどなく、動物もほとんどおらず、生命の禁区のようだ。
一方、タクラマカン砂漠は、氷山が溶けた水が集まった河流が、南、北、西の3方向から砂漠の奥地に流れ、大地の上で踊るように美しい曲線を描いている。河流の両岸にはコトカケヤナギ(胡楊)とギョリュウ(紅柳)が生え、これらの耐寒性の強い植物が、砂漠に生命力と緑をもたらし、砂漠の中の絶景となっている。
砂漠の周辺は扇状地と沖積平野で、河流が通るところには帯状のオアシスができ、絶えることのない生活の息吹と代々伝わる文明が生まれた。
カシュガル地区東部のマルキト(麦蓋提)県は、タクラマカン砂漠に隣接し、中国全土で唯一砂漠に囲まれている県で、砂漠面積が県全体の総面積の90%を占めている。はるか昔から、この地で人々は砂漠と共存し、コトカケヤナギのように根を下ろしてきた。そして近年、砂漠探検観光産業の発展が現地に新たなチャンスをもたらしている。
「ブルルルル――」。大きなエンジン音と共に全地形対応車が広大な砂の海に突入し、起伏のある砂山の間を駆け上がったり急降下したりする。
「車が砂丘の間で飛び上がったり飛び降りたりして、ジェットコースターよりスリルがあって刺激的ですね!」。深圳から来た観光客の陳天躍さんは砂漠を初めて体験してとても楽しそうだ。
近年、山東省による新疆支援がN39度砂漠観光エリアのレベルアップを重点的にサポートし、ここは砂漠探検と砂漠観光のホットスポットとなった。
タクラマカン砂漠を横切るルートは北緯39度線と高度に重なるため、このルートは「N39度」と呼ばれ、砂漠観光エリアにもこの名前が付けられた。ここで観光客はラクダに乗り、砂の海を越え、砂漠の広さと深さを体感できる。また、全地形対応車に乗り、砂の海でサーフィンをするようなスリルと刺激も味わえる。さらに、夜には砂漠キャンプ場に泊まり、広大な星空を眺めることもできる。
砂漠探検観光産業の隆盛は、関連産業の発展をけん引し、現地住民の就業と増収を促進し、生態的効果と経済的効果のウインウインを実現した。
ウスン・エマルさん(23)はマルキト県クムクサル(庫木庫薩爾)郷トワンタワルクスク(托万塔瓦爾克斯克)村出身で、2021年に観光エリアに仕事に来て、後にここで全地形対応車の運転を覚えてドライバーになり、毎月3000元の安定した収入を得られるようになった。「観光エリアには砂利道が敷かれ、多くのプログラムも追加され、現在、観光客がますます多くなっています。私はここでしっかり働き続けようと思っています」
オアシスに響く生命の歌
ヤルカンド(葉爾羌)川のほとりでドゥラン・マカームを演奏する芸人(cnsphoto)
エヘット・トフティさん(74)は足を組んで、オンドルに斜めに腰掛けた。右手で弦をはじき、左手でペグ(糸巻き)を握り、抱えている「ルワープ」(ネックが長細く、ボディーが半球形の撥弦楽器)を調律する。マルキト県ヤタク(央塔克)郷ではドゥラン・マカーム(刀郎木卡姆)の演奏が始まろうとしていた。
12人の演奏者はすでに位置について座っている。男性も女性もおり、彼らはそれぞれ同郷の異なる村落に住んでいる。こちらとあちらは夫婦、こちらはあちらの息子、あちらはこちらの弟子というふうに、彼らはブドウのつるのように互いにからみ合って、まるで「ドゥラン」の意味をうまく説明しているかのようだ。「ドゥラン」の語源は古いウイグル語で「群れ」という意味の言葉で、古代のタリム盆地周辺に暮らしていた人々の自称だった。
マカームは歌、踊り、楽器演奏が一体になった一種の総合音楽芸術だ。ドゥラン・マカームの歌詞は、ウイグル族の民間に伝わる「クシャク(苛夏克)」(歌謡、押韻短詩)で、その主な内容は生活、愛情、宗教などだ。
演奏が始まった。
エマル・イミルさん(53)は右手でカロン(卡龍琴)の弦(古筝に似た外形の撥弦楽器で、通常19対の弦がある)を巧みにはじき、左手で黄銅製の揉弦器「コシュタフ(闊西塔甫)」(「鳥が鳴く」という意味)を握って、この演奏の最初の一音を発した。
エマル・イミルさんは18歳からカロンを学び始めた。当時、彼の家は先生の家から15㌔離れていた。同地では自転車がまだ普及しておらず、ロバに乗るしかなく、往復にとても時間がかかった。彼はテープレコーダーを持って先生の演奏を聴きに行き、家に帰ってから録音を聴きながら練習した。そうして3カ月で基本的な弾き方をマスターした。
現在演奏に使っているカロンはエマル・イミルさんが自分の手で作ったものだ。長さ85㌢、幅55㌢、不規則な台形のボディーは上が狭くて下が広く、左側が曲がっていて右側が真っすぐだ。糸巻きと表面板の素材はクワの木で、それは他の木材だと「このような音が出ない」から。彼の隣に座っているエヘット・トフティさんは、すぐにカロンに続けて、黄銅製のピックで、ロバの皮が張られた円形のボディーをたたき、ルワープを「ダッ」「ダッ」と鳴らして呼応した。
1回のドゥラン・マカームの演奏は五つの部分に分かれるが、時間の長さには大きな即興の余地がある。現地の人々は、音符はボーダレスに跳躍すべきで、フレーズは短くても長くてもよく、まるでブドウのつるのように自由に成長し、いわゆる対称、調和、整然といったものはここではしっくりこないと考えているようだ。
それも理解し難くはない。なぜエヘット・トフティさんはこれほどドゥラン・マカームを愛しているのか――これらの明るく生き生きとした音楽と同じく、彼があまり規則に縛られず、人を楽しませるのが大好きなお年寄りだからだ。
彼は、よく金ぴかの歯を見せながら、はははと笑う。話しているうちに、また手をたたいて歌い始める。古い椅子に座り、頬を赤くして、身振り手振りを交えて、エマル・イミルさんと初めて会ったときのことを説明した。「当時、エマルと同じ先生からカロンを習っていたんですが、彼がたくさん習っているのが羨ましくて、先生に『なぜみんな彼に教えて、私には教えてくれないんですか?』と言ったんです。それからエマルと仲良くなって一緒に遊ぶようになりました」
昔、マルキト一帯は砂丘が連綿と連なり、アルカリ性土壌ばかりで、ドゥラン・マカームは現地の人々が厳しい自然環境の中で気持ちを訴え、楽しみを表現し、交流を強化する重要な手段だった。しかし今日、ドゥラン・マカームの芸人は次々とこの世を去り、演奏グループはどんどん減り、マカームも徐々に人々の生活の場から離れてしまった。
幸い、近年、現地政府と新疆支援幹部が、この無形文化遺産に対して系統的な緊急措置と発掘を行い、毎年新疆支援資金を投入し、支援される地域の無形文化遺産継承者が他の土地へ行って交流公演を行うのをサポートしている。
現在、2人が所属しているドゥラン・マカームグループはすでにマルキトを飛び出し、遠く日本やフランス、オランダなどへ赴いている。フランスへ行ったとき、演奏が終わると、客席から万雷の拍手が起こり(10)、観客は名残惜しんでアンコールの声を上げた。「彼らはとても喜んで、感動して泣いていた人もいました。私たちもとてもうれしかったです」とエヘット・トフティさんは語った。