秦漢とローマ(2) 土地巡る共和政の内戦

2021-01-11 16:33:53

 

潘岳 中央社会主義学院党グループ書記

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。中央社会主義学院党グループ書記、第1副院長(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。

 

奴隷労働の大農場と小農の破産

紀元前206年、中国の楚漢戦争と同じ頃、ローマはカルタゴと第2次ポエニ戦争を繰り広げていた。ローマは50年余りをかけてカルタゴを滅ぼし、マケドニアを解体し、地中海の覇者になった。重要なのは、覇を唱える過程ではローマが終始一貫して共和政を維持していたことだ。

ローマの成功は「混合政体」を実行して君主制、貴族制、民主制を融合させたことによるものだと古代ギリシャの歴史家ポリュビオスは指摘した。執政官は君主を代表して対外的な軍事権を掌握し、元老院は貴族を代表して財政権を掌握し、民会は民衆を代表して否決権を掌握し、3種の勢力が互いに均衡を保った。

紀元前1世紀、ローマ内部の権力の均衡が破られ、ローマは内戦に突入した。紀元前27年、ローマは最終的に共和政から帝政に転換した。過去150年にわたって内戦をしたことがなかったローマ人に一転して生きるか死ぬかの闘争をさせたものは何だったのか? それは土地だった。

150年の海外征服の中で、ローマの権力者たちは大量の奴隷と財宝を故郷に持ち帰り、「ラティフンディア(奴隷労働で経営された大農場)」をつくった。その結果、多くの小農が破産し、土地の併合が激しくなった。ローマの平民は次第に貧民になり、最終的に流民に成り果てた。

君主、貴族、平民の3種の勢力のうち最も強大だったのは貴族だ。イタリアの歴史家マキャベリは次のように述べている。ローマの貴族は栄誉の面では喜んで平民に譲歩したが、財産の面では寸分たりとも譲歩しなかった。そのため、最終的にローマの流民は軍閥に身を寄せた。なぜなら、軍閥だけが対外戦争の中から土地を手に入れられ、兵士に土地を分配するよう元老院に強いることもできたからだ。国家のために戦った公民は将軍らの傭兵になった。政客がコンセンサスを得られない部分に軍閥が登場した。

ローマの内戦期、ある哲学者・雄弁家が生まれた。彼こそが「共和政の父」キケロだ。

紀元前63年、キケロはローマ初の非貴族出身の執政官になり、政界で存分に力を発揮し始めた。ある者は彼のために死に、ある者は彼のために失敗し、ある者は彼のために歴史に名を残した。カエサルの「養子」だったブルータスはキケロを「精神的な父」と見なした。「暴君の暗殺は非常に英雄的だ」というキケロの思想を植え付けられ、ブルータスは剣を振るってカエサルへと突き進みながら、キケロの名を叫んだ。

カエサルの死後、キケロは考えを変えてその継承者アントニウスに対応した。アントニウスは決してカエサルの独裁の古いやり方を取ろうとは思わず、元老院と共にローマを治めようと考えたが、キケロは共和派の指導者としてそれを重視しなかった。キケロは共和派に軍隊を募集させつつ、反乱を起こすようオクタウィアヌス(アウグストゥス)を鼓舞した。

この時、まだ19歳だったオクタウィアヌスはアントニウスに取って代わろうとし、3000人の古参兵を個人的に集めてローマに進軍した。キケロがアントニウスを弾劾した演説「フィリッピカ」により、オクタウィアヌスの反逆行為は「共和政の防衛行為」と位置付けられた。オクタウィアヌスは部隊を率いて元老院の大軍と連携し、アントニウスを打ち負かし、続いてキケロと協力して執政官に立候補し、喜んでキケロのために尽くすことを誓った。

しかしながら、オクタウィアヌスは執政官に選ばれた後、直ちにキケロを捨て、アントニウスと和解した。アントニウスの持ち掛けた条件は、キケロの命を取ることだった。オクタウィアヌスは迷わず同意した。ギリシャの作家プルタルコスはキケロの最期を記録している。「キケロはやみくもに逃げ、馬車の窓から絶えず首を伸ばして追手を見回した。アントニウスの兵士らは剣でキケロの首をはね、彼がしばしば見識のある言論を発表した演壇につるした」

これはローマ史で人々の心を揺さぶる悲劇であり、帝政に向けたカーテンコールの挽歌だった。キケロの死の十数年後、オクタウィアヌスはローマ帝国初代皇帝になった。

 

ローマの「共和政の父」キケロ

 

自由を乱用する雄弁家と軍閥

ローマは巨大な富を抱えていたにもかかわらず、なぜその一部を使って貧富の差を縮小し、国家の分裂を防げなかったのか? 歴史書はその責任をぜいたくな貴族生活に帰している。これは全体をカバーした見方ではない。平民は破産しても、つまるところ票を握っていた。ローマの執政官は任期が1年で、貴族が争って大型の祝賀行事、格闘技、宴会に出資したのは平民の票を獲得するためだった。

貴族は多くの財産を持っていたが、選挙での出費にはなおも十分ではなかったため、多くの者が破産した。そこで各地の財閥は表に立って資金を注入し始めた。彼らは元老に投資しただけでなく、軍閥にも投資した。財閥の金銭は絶えずローマの軍団に流れ込み、党派間の争いを内戦に変えた。50年間に4回の大規模な内戦が起きたため、混乱と絶望の中にあったローマの人々は最終的にオクタウィアヌスが共和政を帝政に変えることを支持した。

これは決して彼らが自由を愛していなかったのではなく、自由が彼らに平等や豊かさ、安全をもたらさず、自由の空論が人々の根本的な関心事を解決できなかったということだ。貧富の格差拡大の問題、兵士らが血を流しても一生土地を分配されない問題、政府と財界が結託した腐敗問題について、元老院は解決方法を考えたことがなかった。

予想に反して問題解決を図ったのは軍閥だった。例えば、オクタウィアヌスは軍事国庫を創設し、全ての退役兵士に土地と現金を集中的に支給した。カエサルもかつて、ローマ付近のポンティーネ湿地を開拓して数万人の貧農に耕作地を与えることを計画し、さらにコリントス運河を掘ってアジアの商業とイタリアの経済を組み合わせようとした。しかし、ローマの「共和政の父」キケロは次のように批判した。それらの工事は「自由」の擁護に比べれば取るに足らないものだ。それは専制君主の功名心の象徴であり、人々に血と汗を流させ、甘んじて奴隷になるよう強いる象徴だ。

雄弁家たちが「自由」を乱用していただけでなく、軍閥も「自由」を乱用していた。軍閥にとって「自由」とは、いかなる政治的制約も受けないという意味だった。ある派閥が元老院で優位に立つと、反対派は「自由を圧迫している」と公言し、意気盛んに挙兵して造反した。ポンペイウスはマリウス派について暴政だと宣言し、私兵を募集した。カエサルはポンペイウス一派が自由を迫害していると宣言し、ガリア軍団を連れてルビコン川を渡った。オクタウィアヌスは自ら造反し、成功後に貨幣を鋳造し、自身のことを「ローマ人の自由の擁護者」と刻んだ。自由は、異なる利益集団が内部抗争を起こす口実になった。

つまるところ、共和政治でコンセンサスを得ようとすれば票決だけを頼りにできるのではなく、構造改革を進める政治家たちの自己犠牲の精神をいっそう必要としていた。自由を守ってきたのは「自由」そのものだけではなかったのだ。

 

ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス

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