秦漢とローマ(3) 多元一体の「大一統」精神

2021-02-18 16:01:26

潘岳=文

 

潘岳 中央社会主義学院党グループ書記

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。中央社会主義学院党グループ書記、第1副院長(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。

 

天子、天命、民心のけん制

中国の前漢王朝と古代ローマ共和国は同時期に存在した。漢朝は成立当初、文帝と景帝が相次いで統治したわずか40年のうちに、皇帝が同じ色の馬を4頭そろえられないような状態から、食糧が多すぎて食べ切れないほどまで変化した。なぜ漢朝は突然豊かになれたのか? 前漢の歴史家・司馬遷(紀元前145/135年〜?)は次のように見なした。朝廷が統一された文字、貨幣、法律、度量衡で巨大な市場をつくり出し、商業で全国の経済圏を結び付けた。分業で生まれた交易と価値によって社会全体の財産が増加し、同時に農業の生産性の急上昇が促進された。その過程では、全国の統一を尊ぶ「大一統」は基礎であり、前提だった。

 

中国の「大一統」の政治構造を構築した漢の武帝

漢朝の体制は最終的に武帝劉徹(紀元前156〜前87年)に定められた。彼は中国のために重要なことを二つ実行した。第一に、地方諸侯の勢力を弱め、中央の権力を郡県に直通させ、その基礎の上で「大一統」の儒家政治を築き上げた。第二に、国の領土を初歩的に定めた。

儒家政治の主な基礎は、孔子が魯国の史書を改訂した『春秋』だ。後世に多く伝わる版のうち、前漢の儒学思想家・董仲舒が高く評価する『春秋公羊伝』は最も影響力を持っている。

『春秋公羊伝』に基づいて『春秋』を解説する公羊学の核心は「大一統」だ。最も得難いのは、それが皇帝の権力をつくっただけでなく、制限していることだ。中国の「奉天承運(天意に従う)」は西洋の「王権神授」とは異なる。ローマの「皇帝神格化」は「民意」とは関係がない。一方、古代中国では、天意は民心を通じて体現された。天子が人々によくしてこそ「天」は皇帝を「天子」と認め、天子が人々によくしなかったら、天は皇位をほかの者に与える。そこで天子、天命、民心は三方のチェックアンドバランス体系を構成した。天子が天下を監督し、天命が天子を監督し、民心がすなわち天命だった。これは権力と責任の対等を強調しており、責任を果たさなければ権力の合法性を失う可能性があった。

武帝は董仲舒の政治理論を受け入れた。彼が最初に実行したのは、時勢に通じ、孝を尽くして廉潔を守れる貧しい儒者を民間から探し出し、皇帝に推薦するよう官吏に命令することだった。このため、武帝の時代には平民出身の多くの名臣が現れた。これ以降、儒家倫理をしっかり学ぶことは、仕官のために必ず通らなければならない道になった。

文官政治の察挙制度(推挙による官吏登用制度)もここから始まった。天下の統治は門閥富豪だけをよりどころとしてはならず、末端の中で最も道理をわきまえ、最も道徳を備え、最も知識を持ち、最も責任感のある者に権力を分配してこそ、民心を団結して執政の基礎を拡大できるということを武帝は理解していた。彼は儒者と末端官吏を共に歩ませ、「統治と教化」の一体化を実現した。これ以降、地方の官吏は行政の責任を負うだけでなく、学校運営の責任も負わなければならなくなった。

また、武帝は文官を制約するために「刺史(監察官)制度」を創設した。中下級の官吏が刺史となり、不定期に地方の統治を見回った。一つは地方の実力者の土地併合に対するものであり、もう一つは地方の官吏の行状に対するものだった。これは歴代の中央監察制度の始まりだ。

武帝が「罷黜百家、独尊儒術(諸子百家を排斥して儒学のみを尊重する)」だったとするのは実際には誤解だ。彼は董仲舒を用いると同時に、法家の張湯、商人の桑弘羊、牧畜業の卜式、ひいては匈奴の王子である金日磾も起用した。これらの人物は『春秋』を学んだが、決して儒者ではなかった。前漢の政治は思想から実践まで全て多元的だった。多元的であったのなら、なぜ儒家思想で制限する必要があったのか? なぜなら、一体とならずに、多元的な競争による均衡をよりどころとするだけでは、最終的に分裂する可能性があったからだ。「大一統」だけが多元的な思想を一つの共同体内に集められた。

多元一体の「大一統」こそ漢の精神だった。

 

西洋式知識人に近い司馬遷

「公権力」に対して「絶対的な独立」を保つ西洋式の知識人を中華文化は生み出せない、唯一のそれに似た人物は司馬遷だという指摘がある。彼は董仲舒を師として儒学を学んだが、道家の「無為にして治まる」をより推しあがめ、自由放任の商業社会をより好んだ。『史記』の中で彼は刺客や侠客、商人に王侯・将軍と同等の「列伝」の扱いを与えている。彼は武帝を恐れずに批判し、ぬれぎぬを着せられた大臣のために恐れずに立ち上がって味方し、そのために刑罰を受けた。

しかし、司馬遷はつまるところ、俗世を離れて暮らすギリシャの学者たちとは違っていた。司馬遷は武帝の政治のやり方を好まなかったが、地方勢力を弱体化させたことについては大いに称賛し、国家の混乱を解決する根本的な措置だと認めた。彼は生涯にわたって貧しかったが、金持ちを憎んだことはなく、大部分の商人の財産は経済法則を把握し、懸命に働いて手に入れたものだと思った。また、無慈悲な官吏に苦しめられても法家に恨みを抱かず、法家の政策がうまく実行されれば社会の長期的な安定を維持できるとまで考えた。

 

中国最初の紀伝体通史『史記』を書き上げた司馬遷

司馬遷は自身の苦しみを理由として体制に対して体系的に批判したことはなかった。なぜなら、司馬遷は「個人の利害」を追求せず、全体の利益を重視していたからだ。彼が公権力を批判したのは、苦心して独立を追求したからではなく、天下にとって有害だと考えたからだ。彼が公権力を称賛したのも、暴威に屈服したからではなく、天下にとって有益だと考えたからだ。彼の中で個人の自由と集団の責任の対立は一つにまとまっていた。これは中国の知識人を西洋の知識人と区別するはっきりとした特徴だ。

司馬遷は『史記』の中で武帝を批判しただけでなく、開国皇帝劉邦の勘繰り、皇后呂雉の乱れた政治、功臣・名将の短所も記し、漢朝の成立を全く神聖視しなかった。しかしながら、漢朝はそれを公式に収集した国史として代々伝えた。自発的な寛容の意識、自己批判の精神がなければできないことだ。漢朝は皇帝を評価する権力を史官に与えた。歴史は中国人の「宗教」に相当し、歴史の評価は宗教裁判に相当する。この原則は歴代王朝に継承された。

華夏(中国の古称)の正統性とは中華の道統(行為、思想の規範)だった。大規模な政治組織の長期的な安定は、必ず道統に対する各社会集団、各階層の内心の同意によって確立されなければならなかった。その核心は中道、寛容、平和であり、一種の原則、立場、法則、価値を体現している。皇帝から臣民まで、社会の各階層はそれぞれの道に従わなければならなかった。公のためか、それとも私のためか、「大一統」の維持か、それとも分裂か。大道は高々と掲げられており、誰もが「道」の判定から逃れられない。  

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