中国の五胡と欧州の蛮族(1) 北方民族の自発的漢化

2021-07-16 12:46:27

潘岳=文

 

潘岳 中央社会主義学院党グループ書記

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。中央社会主義学院党グループ書記、第1副院長(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。

300~600年ごろ、中国とローマは同時に中央政権の衰退に直面し、同時に周辺の民族集団の大規模な攻勢に見舞われた。

中国では、匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の五つの少数民族(五胡)が次々と南下し、多くの政権を樹立した。ローマでは、西ゴート、東ゴート、バンダル、ブルグント、フランク、ランゴバルドなどのゲルマン人部族が相次いで侵入し、「蛮族王国」を打ち立てた。

中国の五胡十六国の政権は紛争と分裂を繰り返したが、最終的に内部の再編を実現した。正統を代表していた南朝を融合し、秦漢の中央集権の超大規模な国家形態を継承し、胡漢を融合させた隋唐という「大一統(統一を尊ぶ)」王朝の基礎を確立した。

欧州の各蛮族王国の数百年に及ぶ戦いで、フランクなど一部の王国はいったん西欧をほぼ統一したが、最終的には個々の封建国家に分裂した。西欧はカトリック教会を精神的な統一の力として、国々をつなぎ止めるよう努力した。

この歴史の分岐点は、民族集団意識から政治制度までの中国と西洋の異なる道を再び体現した。その中の文明の論理が最も重要だった。

 

食糧や貿易のために中原と融合

中国とローマの運命は89年の燕然山(現在のモンゴル中央部ハンガイ山脈)の戦いで変わった。

この戦いを経て、北匈奴は西の欧州へ移動し、後の各ゲルマン人部族のローマ侵入を促した。南匈奴は中原に南下し、五胡の移住の先例になった。

中国とモンゴルの考古学者は2017年、後漢の歴史家・班固が漢朝の匈奴撃退をたたえるために書いた「燕然山銘」をハンガイ山脈で発見した。実際の歴史では、南匈奴の単于(君主)がまず北匈奴内部の動乱を察知し、自発的に漢朝に出兵を提案していた。竇憲の率いた騎兵4万6000人のうち3万人は南匈奴人で、残り1万6000人の半分は羌人だった。南の中原に入った遊牧民族集団を漢朝が率い、共同でいや応なしに北匈奴を西へ移動させたといえる。

この一幕は後世でもたびたび繰り返された。世界の突厥研究者に重要視される「闕特勤(キュル・テギン)石碑」の突厥文字によると、突厥のカガン(北方遊牧民族の君主号)は「なぜ回鶻は唐朝と協力して自分たちを包囲攻撃しようとするのか。なぜ草原の民族集団はいつも中原に移り住もうとするのか」と嘆き、不満を抱いていたという。

遊牧社会は団結していなかったということか? そうではない。地理・気候面からいえば、寒波が草原を襲うたびに北方の遊牧民族は南に移動する可能性があった。資源面からいえば、草原地域が受け入れられる人口は農耕地域の10分の1にすぎず、遊牧民族は生活と貿易を維持するために中原から食糧、茶葉、絹織物、麻織物を確保しなければならなかった。より北方にいた民族集団が西に向けて活動しようとしたのとは異なり、ゴビ砂漠以南の民族集団は中原と融合しようとしていた。彼らは中国北部の経済と交通のネットワークを中原と共有しており、凶作の年に食糧をいっそう入手しやすく、低コストでいっそう貿易をしやすかった。1500年後、地理から経済まで、民俗から言語まで、文化から制度まで、北東アジアを包括する政治共同体が最終的に形成された。

燕然山の戦い以降、南匈奴は中国に深く入り込み、北方辺境地域で遊牧して生活した。漢朝の懐柔政策によって彼らは税を納めなかったが、郡県制の人口管理を受け入れる必要があった。今日、寧夏、青海、内蒙古、陝西、山西の各省・自治区で南匈奴の墓が見つかっている。漢人式の墓穴だけでなく、草原で家畜の骨を副葬品とした「頭蹄葬」の墓もある。青海省では、漢朝が匈奴の首領に与えたラクダ形の銅印も出土しており、胡漢の文化は融合していた。南匈奴の南下前後に移り住んできたのは、ほかに西北の氐、羌、東北の鮮卑、ゴビ砂漠以北の羯がいた。三国時代後期、中原の人口が激減したため、魏と晋は常に五胡を帰順させていた。100年間で移り住んできた五胡は数百万人に上る。西晋の「八王の乱」後、北方の総人口1500万人のうち、漢人は3分の1を占めるだけだった。「漢化」とは漢人の「大民族集団」が人口数の絶対的な優位を頼りに、胡人の「小民族集団」の生活様式を変えることだと誤解している人がいる。しかし実際には、北方の五胡は漢人を「胡化」する実力を完全に持っていたが、自発的に「漢化の道」を選択していた。

 

陝西省靖辺県の統万城遺跡。五胡十六国時代、南匈奴の大夏が建設した首都の遺構で、匈奴の残した唯一の調査可能な都市遺跡でもある(写真提供・潘岳)

 

大一統精神の改革で天下統一

五胡で最初に王朝を打ち立てて西晋を滅ぼしたのは、南匈奴人の劉淵だ。彼は南匈奴の羌渠単于のひ孫で、漢との婚姻関係から劉姓に改めていた。貴族の子弟として劉淵は晋朝の宮廷で学び、漢人の古典を好んだ。彼は現在の山西省に割拠していたが、匈奴の北方の生活に戻ろうとは思わず、「漢」を国号として天下を統一しなければならないと考えた。そのため、彼は劉邦、劉秀、劉備の後継者を自称した。

しかし、劉淵の政権は長くは続かず、羯人の石勒に滅ぼされた。羯人は鼻が高くてひげが濃く、イラン系のサカ人に属し、かつて匈奴につき従っていた。石勒の出身は劉淵とは異なる。2人とも漢文化を好んだが、劉淵は遊牧民の貴族で、石勒は雇農の奴隷だった。石勒は読み書きができなかったが、『漢書』を読んでもらうのが好きだった。太子の石弘は父の手配によって完全に儒生になった。しかし、石勒も成功せず、北方を統一した政権は残虐な後代の者で終わった。後趙の廃墟からは鮮卑慕容部の前燕と氐人の前秦が生まれた。

五胡政権で初めて北方を統一したのは前秦の苻堅だったが、準備不足の状態で晋を攻めて敗れた。衰えた前秦からは羌人の姚氏の後秦、鮮卑慕容部の後燕、匈奴の赫連の大夏が現れた。

混戦の中でモンゴルの草原から鮮卑拓跋部が群雄を打ち破っていき、国号を魏と定めた。3代にわたって国をしっかり治め、100年余り北方の統一を保った。北魏は分裂後に北周と北斉になり、北周が華北を統一した。そこから天下統一の隋唐が誕生した。

最も天下統一に近づいた前秦と北魏という二つの政権は、漢化の程度が最も高く、漢化の態度も最も決然としていた。

苻堅は代々酒を好む氐人の家庭に生まれた。軍務に追われる豪傑で、幼少の頃から古代の書物を熟読し、即位後には文化と教育を最も重んじた。道徳面で周公と孔子に負けないこと、実践面で漢の武帝と光武帝を超えることが彼の目標だった。群雄が天下を争う時代だったため、隠れた危険を取り除くよう多くの人々が勧めたが、彼は徳によって心服させる手本を打ち立てなければならないと考えた。その結果、淝水の戦いで敗れ、鮮卑の豪傑たちがすぐに謀反を起こし、後燕と西燕を建国した。

北魏は前秦よりも徹底的に漢化を推進した。太武帝は漢人の士大夫を大量に重用し、鮮卑の子弟に儒書を学ばせた。孝文帝は洛陽に遷都し、両晋南朝の官職制度を模倣した。また、鮮卑人の家格を定め、中国風の姓に改め、中国語を話すよう命じた。自ら先頭に立って漢人の士族との通婚を進めた。

北魏が北方を統一し、さらにそこから現れた北周と隋朝が全国を統一できたのは、彼らが漢人の風俗習慣や儀礼を採用したことと関係がある。しかし最も重要なのは、大一統精神の政治制度改革を進め、秦漢の儒家・法家の国家形態を再びつくり上げたことだ。

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