中国の五胡と欧州の蛮族(2) 北方民族が継いだ漢代制度

2021-08-27 15:19:04

潘岳=文

制度革新で「正統」に勝利

西晋の崩壊後、末端政権は完全に崩壊し、庶民は宗族や豪族につき従い、集住して自分たちを守った。戦乱は田畑の荒廃を招き、一方で流民が土地を失い、もう一方で豪族が機に乗じてそれらを占領した。これにより、貧しい者はますます貧しくなり、豊かな者はますます豊かになった。

485年、北魏は均田制改革を実行し、所有者のいない荒れ地を接収して国有とし、貧民に均等に分配して耕作させた。均田令はまた、老人や子ども、障害者、未亡人に土地をどう分配するかを規定していた。これ以降、強者は依然として強いままだったが、弱者も足場を持つようになった。北魏から唐中期まで、貞観の治(唐第2代皇帝太宗の治世)と開元の治(唐第6代皇帝玄宗の治世)の土地制度の基礎は全て均田制だった。

均田制と同時期のもう一つの重大な改革は三長制だ。焦点を当てたのは乱世における豪族の割拠だ。豪族とはつまり「宗主」だ。社会の末端に対する朝廷の支配は主に「宗主」を通じた間接的な管理で、「宗主督護制」と呼ばれた。三長制は宗主制を廃止し、秦漢式の3段階の末端政権(5家を1隣、5隣を1里、5里を1党とし、各段階に長を置く)を再建し、庶民の中から郷官を選び、徴税と民政を担当させた。

北魏は均田制を通じ、編戸(戸籍に登録された住民)、賦役、兵士の供給源を十分に獲得した。また三長制を通じ、末端政権を再構築した。官僚制を通じ、中央集権の行政システムを回復した。これらは「漢服の着用」「儀礼の改革」などの形式以上に「漢制(漢代の制度)」の要だった。西晋滅亡から170年後、中原は意外にも少数民族王朝の手で「漢制」を取り戻した。わずか30年のうちに北魏の人口と軍隊は南朝を超えた。漢人農民は大量に北魏の軍隊に加わり、「鮮卑が戦い、漢人が耕作する」というそれまでの区分を打ち破った。

北魏が「漢制」を継承したとき、東晋と南朝の「漢制」は硬直化に向かっていた。漢代に始まった察挙制は、代々高い官位に就く経学(儒教経典研究)門閥と複雑に絡み合う官僚豪族を生み、魏晋南北朝時代には門閥政治に発展した。東晋政権の確立は官僚地主一族の支持を頼りにしていたため、次のような奇妙な現象が現れた。北方の多くの流民が南方に移ったが、300年にわたって江南の戸籍上の戸数と人口はほとんど増加しなかった。これらの流民は官僚地主一族に身を寄せて「個人の下僕」になり、政府に登録されていなかったからだ。朝廷は一方で人口を把握せず、もう一方でより多くの税を失っていた。門閥政治は清談を提唱し、優雅な魏晋の風格と玄学(『老子』『荘子』『易経』を重んじた哲学)の思想を生んだが、社会の衰退は芸術のピークと同時に起きていた。

中国の著名な歴史家の陳寅恪と銭穆は次のように指摘した。後の隋唐は全体的に北朝の政治制度と南朝の礼楽(礼節と音楽)文化を継承した。南朝が旧習を踏襲したのと比べ、北朝の制度革新は「漢制」の大一統(統一を尊ぶ)精神にいっそう合致していた。陳寅恪は「塞外の野蛮で力強い血を取り入れ、中原文化の退廃した体に注入した」と述べた。注入したのは人種というよりも改革と革新の精神だった。

南朝に対する北朝の勝利は文明に対する野蛮の勝利ではなく、誰が大一統精神をより継承できるかという点での勝利であり、硬直化して先人の事業を維持する「旧漢制」に対する胡漢共同採用の「新漢制」の勝利だった。

 

491年、山西省大同市に建設された北魏平城明堂。北魏帝王が謁見や祭祀、式典を行った。建築様式には胡漢の文化融合が見て取れる(写真提供・潘岳)

 

十字軍後の欧州「ローマ化」

五胡の民族集団が「漢化」に執着したのは、漢文明の精髄が長期的に安定した超大規模な政治的統一体の構築にあったからだ。遊牧民族集団は軍事的優位性を備えていたが、もし漢文明の制度と経験を吸収していなかったら、自らを「正統」とたたえる南朝に打ち勝つすべはなかった。「漢制」は「漢人」の慣習法ではなく、私情にとらわれない理性的な制度だった。蛮族なのか漢人なのかは血統や習俗で判断するのではなく、文明や制度で判断した。たとえ漢人であっても、「漢制」精神を継承して発揚しなければ、中国の継承者の資格を失う可能性があった。

「漢化」は「漢人に同化される」という意味ではない。前漢の初期に「漢人」はおらず、ただ「七国の人」だけがいた。司馬遷は『史記』を書いたとき、七国の人を使って各地の人々の異なる気性を描写した。漢の武帝の後、「漢人」は「漢王朝の大衆」の自称になった。なぜなら、武帝が秦の法家制度、魯の儒家思想、斉の黄老思想と管子の経済思想、楚の文化芸術、韓・魏の合従連衡策と刑名学、燕・趙の軍事制度を一つにし、「大一統漢制」を形成したからだ。それ以来、こうした制度と文明に賛同する人々が「漢人」になった。「漢人」は政治制度で「国民」を構築した最初の実践だといえる。これらの制度は秦漢によってつくられたが、中華世界だけに属することはなく、東アジア古代文明の遺産になった。漢字も「漢族の文字」というだけでなく、東アジア古代文明の重要な担い手になった。なぜなら、大一統確立の経験と教訓が全て中国語の法典や史書の中に記載されていたため、学ばなければ再建して前へ進むことができなかったからだ。五胡が自発的に漢化したのは、決して祖先を忘れて自らを矮小化したのではなく、部族政治を超えて超大規模な政治的統一体を建設する勇壮な志を抱いたからだ。

「漢化」と似た概念に「ローマ化」がある。古代ローマの制度はローマ人によって発明されたが、地中海文明の古典的なありさまになった。ラテン文字はすでに「ローマ人の文字」ではなく、欧州古代文明の担い手になった。多くのゲルマン蛮族王国がラテン語の口語を捨て、異なるゲルマン民族集団が部族と方言の違いによって異なる王国と異なる言語に分かれていった後、ラテン語を担い手とする古代ローマ文明は野蛮の奔流とカトリックの権威の下に埋もれた。12世紀初頭になってようやくローマ法の復興が始まり、14、15世紀のルネサンス期になってようやく「人文主義」と「国家理性」が再発見された。これらの「再発見」の源は欧州本土にはなかった。もし十字軍の東征がコンスタンティノープル(現イスタンブール)から古代ギリシャ・ローマの文献を持ち帰らず、もしアラブ人の翻訳したプラトンやアリストテレスの古典作品がなかったら、欧州はルネサンスを始められず、啓蒙運動もあり得なかった。ギリシャ・ローマの古代文明は中国文明のように周辺の民族集団と本土住民によって共同で受け継がれることがなく、「輸出品の国内販売」で取り戻されたといえる。

 

西周で始まり、漢代で盛んになった瓦当は中原建築の重要なシンボルだ。北魏の時代の出土品には漢字が刻まれており、北魏がすでに漢人の文化を受け入れていたことを示している(写真提供・潘岳)

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