中国の五胡と欧州の蛮族(3) ゲルマン王国の脱ローマ化
潘岳=文
「融合より分裂」の二元政治
ローマ人はライン川とドナウ川の外側の異民族集団を「蛮族」と呼び、後に「ゲルマン人」と総称した。漢朝と同様に、ローマは2本の川の国境に沿って「ゲルマン長城」を築き、ゲルマン諸民族とどうにか争いなく付き合った。東から北匈奴が追われてくると、草原の各民族集団はこのぜい弱な長城を繰り返し突破した。ゲルマン人は深く中央部に入り込んで略奪と殺りくを行い、北アフリカやスペインなどの食糧生産地域と銀鉱を占領し、次々と土地を占拠して建国した。409年にスエビ人がスペイン北西部を、439年にバンダル人が北アフリカを、457年にブルグント人がフランス北東部を、449年にアングロ・サクソン人がブリテン島を占領した。
これらは全て一民族一領土の小王国で、真に「大王国」を建てたのはゴート人とフランク人だった。東西ゴート王国は南欧全土(スペイン、イタリア、フランス南部)を占領し、フランク人は西欧の大部分を征服した。
歴史家の推計によると、476年の西ローマ帝国滅亡に関わった蛮族はわずか12万人だった。また、後に北アフリカを占領したバンダル人は8万人、ガリアに入ったフランク人、アラン人、ブルグント人は10万人、テオドリック王がイタリアに連れていった東ゴート人は30万人だった。これにより、ローマ帝国に侵入した蛮族の総数は75万〜100万人だと見積もられている。
一方、両晋の時期に南下してきた五胡の人口は数百万人だった。ローマと西晋の人口規模がほぼ同じだったことを考えると、ローマに入ったゲルマン人はローマ人の数よりもはるかに少なく、五胡よりも「ローマ化」しやすかったはずで、漢文明のようにローマ文明は西欧で続いたはずだ。しかし事実は反対で、これらのゲルマン王国は一部が短期的に「部分的ローマ化」を果たしたほかは、大部分が徹底的に「脱ローマ化」した。
例えばゴート人は建国すると、征服されたローマ人と分かれて住むよう苦心し、一般的に都市の外に城塞を造ることを選んだ。村落にそびえ立つ城塞は孤島のようで、今日の欧州の農村に見られる城塞風景の起源になった。血統の純粋性を保ってローマ人に同化されないよう、また勇敢な精神がローマ文化で堕落しないよう、ゴート人は「二元政治」を確立した。民族間の往来では、ゴート人は集団を分けた管理制度を実行し、ローマ人とゴート人の通婚を禁止した。法律では、ゴート人は蛮族の習慣法を用い、ローマ人はローマ法を用いた。行政制度では、ゴート人は軍事を担当し、ローマ人は政治を担当した。文化・教育では、ゴート人がラテン語やローマ文化を学ぶことを奨励しなかった。宗教信仰では、ローマ人はキリスト教を信仰し、ゴート人はキリスト教の異端であるアリウス派を信仰した。こうした分割ルールは長く続いた。まさに英国の歴史家ペリー・アンダーソン氏が指摘するように、「(蛮族の建国で)より多く使われたのは融合方式ではなく分裂方式」だった。
ドイツ西部トリーアにある高さ30㍍、幅36㍍、奥行き21㍍の城門ポルタ・ニグラ。2世紀にローマ人がゲルマン人の進攻を防ぐために築いた(写真提供・潘岳)
寛大な征服者と感謝知らぬ臣民
ゲルマン諸王国のうち、「部分的ローマ化」を進めた唯一の特例は東ゴート王のテオドリックだ。彼は「二元政治」を行ったが、ローマ文明の価値を最も理解していた蛮族の国王だった。
テオドリックは東ゴートの王子だった。人質として東ローマの宮廷で教育を受けたため、ローマの貴族社会を非常によく知っていた。テオドリックは西ローマを占領し、イタリア国王として独り立ちした。彼は西ローマの文官制度を残し、ローマは元のまま執政官や財務官ら政務官によって管理された。彼はまた、ローマ人が役人になり、ゴート人が兵士になるよう命令を下した。ゴート人の兵士が得られた唯一の利益は、ローマの農村の地主たちに土地の3分の1を無理に要求することだった。これは蛮族の全占領軍のうち最も少ないものだった。
テオドリックは非常に寛大で、彼の統治の下でローマ人は自分たちの服装、言語、法律、習俗、宗教を完全に保った。彼はさらにローマの旧臣たちの権力を残し、ローマの貴族で、アウグスティヌス以降の最も偉大なキリスト教哲学者のボエティウスに政治を託した。
ローマの旧臣に対するテオドリックの肩入れは自民族内に憎しみを引き起こした。英国の歴史家ギボンによれば、ゴート兵士2万人はイタリアで「憤りながら平和と規律を維持」していたという。テオドリックが統治した33年間、イタリアとスペインは以前のローマ帝国の風格、壮大な都市、優雅な元老、盛大な祝日、慎み深い宗教を維持した。
ローマ人と東ゴート人は完全に融合でき、「もともとはゴート人とローマ人の団結によって、イタリアの幸福な生活が代々受け継がれ、自由な臣民と知識を持った兵士で構成された新しい人々が完全に人徳の高さにおいて互いに競い、徐々に台頭できるはずだった」とギボンは指摘した。しかし実際には、ゴート人とローマ人の深い矛盾は真っ先に宗教面から激化した。テオドリックはローマ教会に寛容だったが、ローマ教会はユダヤ教に寛容になろうとせず、ユダヤ教の会堂を焼き払って財産を強奪した。テオドリックは平等のため、罪を犯したキリスト教徒を処罰した。キリスト教徒はこれを恨み、彼に背いて東ローマ帝国のビザンチン教会と頻繁に結託した。
523年、ローマの元老アルビヌスは東ローマ皇帝に手紙を書き、ゴート王国を打倒してローマ人に「自由」を取り戻させるよう求めた。これが暴露されると、テオドリックは大いに怒り、裏切った元老らを捕らえた。この時、ボエティウスは勇敢に立ち向かい、「彼らが有罪なら私も有罪です! 私が無罪なら彼らも無罪です!」と身をもって保証した。彼はゴート人と密接な関係を持っていたが、正念場ではやはりローマ貴族の側に立つことを選んだ。
ギボンは次のように総括した。ゴート人がいくら寛容で仁愛の心を持っていても、永遠にローマ人の賛同を得ることはできず、「感謝を知らないこうした臣民は、永遠にゴート人の征服者の出身、宗教、ひいては人徳に対し、心から寛容にはなれなかった」。
この時、テオドリックはすでに晩年に至っていた。彼は「生涯をかけてローマの人々のために働いたが、得られたのは恨みだけだった」と気付いて憤った。最終的にボエティウスを死刑にすることを決め、さらに生前の自己弁護権の剥奪という「最も非ローマ的」なやり方をわざわざ用いた。ボエティウスの死後、テオドリックは精神的に苦しみ、まもなく病死した。
その9年後、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスは「聖戦」を起こし、約20年かけて東ゴート王国を滅ぼした。