中国の五胡と欧州の蛮族(4) 血統超え融合した中華民族

2021-10-20 14:10:21

潘岳=文

ローマを捨てたローマ

東ローマ帝国の懐に戻った西ローマ人は願いをかなえたのか? その答えは予想外だった。

東ローマ帝国の将軍ベリサリウスが東ゴートを攻撃した際、西ローマの貴族と平民は次々と内部から呼応した。ベリサリウスは教皇シルウェリウスの内通により、戦うことなくローマに入った。

一方、「国軍」に対する西ローマ人の熱烈な気持ちは長くは続かなかった。西ローマ人は長期間の攻防による苦しい生活に耐えられなかった。まず入浴できず、十分に眠れなかったため、また後々には食糧不足のため、東ローマ軍を呪いののしった。かつて東ローマ側を助けて城門を開けたシルウェリウスは包囲を解くため、意外にも再び夜間に城門を開け、ゴート人がひそかに市内に戻ってベリサリウスを襲撃するのを助けようと計画した。陰謀が漏れた後、シルウェリウスは直ちに追放された。

貴族だけではなく、平民も東ローマ帝国を見捨てた。西ローマの多くの農民と奴隷はかつて仕えたゴート軍にあらためて加わった。給与を受け取れなかった多くの蛮族傭兵軍もゴート軍に参加し、一斉に「解放者」を攻撃した。

もちろん、西ローマ人が東ローマ人に敵対したのには理由があった。東ローマ帝国は現地の民生を全く考慮せず、ただ徴税だけを考えた。戦後、イタリア北部は一面の廃墟となり、経済は悪化し、人口は激減した。ベリサリウスの後任の将軍ナルセスは軍事政権を樹立し、15年間の略奪的な税収を実行した。東ローマ帝国の税吏は「アレクサンドロスのはさみ」を名乗った。税金の12分の1を合法的に自分の物にできたため、税吏たちは財物を搾り取る熱狂的な原動力をかき立てられた。私人が国家の税収から一定の割合を抜き取る「徴税請負制」は、マケドニア帝国からローマ帝国までの一貫した悪政だ。東ローマ帝国はまたそれを国家の行為にした。一方、ローマの統治体系は回復せず、1000年続いた元老院はここで終結した。

蛮族のテオドリックが苦心してローマ体制を維持し、ローマ人の東ローマ帝国がそれを一掃した。欧州の歴史家は次のように指摘する。もしゴート戦争がなかったら、ローマ古代文明がこれほど早く消失して中世に移ることはあり得なかった。どれだけ寛大でどれだけローマ化しても、「蛮族」人の皇帝を傲慢なローマ貴族がいつまでも受け入れられなかったせいだ。

東ゴート以降の蛮族はローマの政治制度を思い切って捨て、徹底的に自分たちの道を歩んだ。ローマの生活習慣は欧州の一部地域で1世紀余り惰性で続けられた。

 

494年、北魏の孝文帝は首都を中国北方の平城(現在の山西省大同)から中原地域の河南省洛陽に移した。これは北魏が実行した漢化で最も重要な措置だ。北魏政権を固めただけでなく、各民族文化の融合と経済発展を促進した(写真提供・潘岳)

 

胡漢融合を実践した君臣

中国には、テオドリックとボエティウスの君臣関係によく似た2組の人物がいる。まず前秦の苻堅と王猛、次に北魏の拓跋燾と崔浩だ。

苻堅は五胡で最も仁徳のある君主で、王猛は北方屈指の名士だった。王猛が苻堅を補佐することを選んだ一つ目の理由は、苻堅が統一を尊ぶ「大一統」の志を立てたことだ。苻堅は氐族だったが、生涯を通じて天下統一を追求した。長安の鮮卑の貴族をまだ安定させていなかった頃、危険を冒して東晋に南征しようとした。彼は「統一」してこそ初めて「天命」が得られると考えていた。苻堅は数多くの戦いを経験した豪傑で、決して危険を知らないわけではなかったが、ただ「大一統」という最終的な志は個人的な成否を問題にしないものだった。

王猛が苻堅を選んだ二つ目の理由は、漢人政権である東晋の為政の道が王猛の理想と異なっていたことだ。東晋は門閥政治を重んじたが、王猛の理想は儒法並行の漢制(漢代の制度)だった。一方では法家の「法を明らかにして刑を峻しくし、強豪を禁勒す」を必要とし、もう一方では儒家のように優れた人物を抜てきし、農業を発展させ、礼儀を教えることを必要とした。

東晋は家柄によって官職に任命したが、苻堅は末端から精鋭を選抜した。東晋は玄学(『老子』『荘子』『易経』を重んじた哲学)を推し進め、政治では風雅を重んじた。苻堅はこれに対し、学んで実際に役立て、実行して国を繁栄させることを主張した。

氐人の前秦は漢人の東晋と比べ、王猛の「漢制」理解にいっそう合致していた。王猛のような士大夫の考えでは、「漢」は血統や人種ではなく、制度的理想だった。中華世界の民族集団は胡漢を問わず、「血統」や「宗教」をローマ世界のように民族集団を分ける根拠にはしなかった。テオドリックがもし中国に生まれていたら、彼が正統を勝ち取るのを無数の胡漢の豪傑が補佐していたかもしれない。

拓跋燾は鮮卑の偉大な君主だ。崔浩は北方の名門漢人の子弟で、北魏の3人の君主に仕え、幅広く書物を読み、策略にたけていた。崔浩は一方では拓跋燾のために策略を練り、中国北方の統一を完成させた。もう一方では、「文治」改革を進めるよう拓跋燾に促し、軍事貴族が政治を取り仕切る制度を廃止し、文官制度の尚書省を復活させ、秘書省を併置した。また、末端政権を整え、地方の行政手法を調査し、中原の律令条文を大量に取り入れた。このほか、崔浩は鮮卑の精鋭と漢人の精鋭の融合を強く主張し、拓跋燾はそれを聞き入れ、漢人の名士数百人を大々的に中央と地方に招集した。

拓跋燾は崔浩を非常に大切にして信頼し、自ら彼の邸宅を訪ねて軍事や国政の重要問題について意見を求め、作曲して彼の功績をたたえるよう楽師に命じた。鮮卑の貴族は拓跋燾の偏った姿勢に大きな不満を抱き、匈奴の貴族と鮮卑の貴族の共謀による政変未遂まで起きた。

ボエティウスと同様に、崔浩も民族集団意識に関わったために天寿を全うできなかった。彼は北魏史を編さんした際、漢化以前の鮮卑人の立ち遅れた風習を記録し、石碑に刻んで首都の要路の道端に立てた。鮮卑人はこの「欠点の暴露」に激しく憤った。当時、ちょうど宋(南朝)の文帝の北伐があった。鮮卑の貴族は崔浩が祖先を侮辱したと次々訴え、崔浩が宋に加わろうと画策したとして陥れた。なぜなら崔浩の一族郎党は非常に多く、南朝に一族や姻戚の関係者がいたからだ。拓跋燾は激怒し、崔浩の一族を滅ぼした。

しかし、崔浩の事件によって漢人と鮮卑の融合が突然止まることは決してなかった。崔浩の一族が死に絶えた後、彼の傍系の親族は依然として北魏にとどまった。孝文帝の即位後、崔氏の子孫の崔光や崔亮らが引き続き北魏の官吏になった。特に崔鴻は残った史料を広く集め、全100巻の『十六国春秋』を執筆し、五胡の各政権の史実を記録した。

ゴート人がローマ人の裏切りで急速に脱ローマ化したのとは異なり、拓跋燾は崔浩の事件で胡漢融合をやめず、依然として鮮卑の貴族の子弟に儒学を学ばせた。その後、孝文帝はいっそう漢化改革をピークへ向かわせた。漢人と鮮卑人は個人の栄辱をよりどころとして政治を構築することはなく、歴史をより本質的に理解していた。

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