中国の五胡と欧州の蛮族(5) 独立分散のゲルマン人

2021-11-26 15:32:49

潘岳=文

欧州の国土分割と王権地方化

東ゴート人のイタリア占領とほぼ同時に、長らくベルギーの海岸とライン川沿岸で暮らしてきたフランク人がローマのガリア属州を占領し、メロビング朝を打ち立て、6世紀に現在のフランスに当たる地域をほぼ統一し、7世紀半ばにカロリング朝に交代した。フランク王国のカール大帝はスペインを除く西欧を征服し、領土面で西ローマ帝国に近づき、東ローマ帝国と並び立った。

なぜ東ゴート人はローマ人に滅ぼされ、フランク人は強大になれたのか? 主な理由は初代フランク国王クロービス1世がカトリックに改宗し、キリスト教会勢力の全面的な支持を得たことだ。

同じようにキリスト教を信仰する点を除き、フランクとローマ文明には共通点がほとんどない。

ローマ皇帝は短髪の上に桂冠を頂いたが、フランク国王は蛮族の象徴である長髪を終始蓄え、「長髪の国王」と呼ばれた。

ローマは都市文明で、凱旋門と宮殿を持っていたが、フランク国王らは農村に住むのを好み、周囲に畜舎を建てて牛や鶏を飼い、奴隷の生産した食糧と酒を販売できた。ローマは中央財政と国税による経済で、フランク王国の王室は「個人農場」経済だった。

ローマ法には内外の区別があったが、少なくとも形式的にはローマ公民の内部の平等を維持した。しかし、フランク王国の慣習法は身分制を実行し、フランク人の命は征服されたガリア地域のローマ人の命より価値があると厳正に宣言した。征服者と被征服者のこうした格差は、フランク人とガリア人の民族集団の格差に変化し、一歩進んで貴族と平民の階級格差に転じた。貴族学者ブラン・ビアリはフランス革命前、次のように論証した。フランスの貴族はガリアを征服したフランク人の末裔で、祖先の特権を受け継ぐのは当然だ。また、フランスの第3身分はガリアのローマ人の末裔で、支配されるのは当然で、政治的権利を要求する資格はない。

ローマ法は証拠を重んじ、法理に支えられた成文法だ。蛮族法は火や水を利用した簡便な裁定法と神の意志による判決を採用した。証拠不足の場合には「決闘」に任せ、ひ弱なローマ人は大柄なフランク人に勝てないため常に裁判を諦めていた。道理を重んじずに腕力を重んじるこうした蛮族の習慣は、後に意外にも貴族や騎士の精神として敬われるようになった。

西ローマ帝国は緻密な財政と市政の官僚制を持ち、最盛期には官吏数が4万人に達した。フランク王国は官僚制を徹底的に放棄して封建領主制を実施した。国王は臣下に土地を与え、土地と軍役で結び付く忠誠関係をつくり出した。当初、土地は世襲できなかったが、長い年月がたつうちに強大な貴族によって世襲の財産に変えられ、中世欧州で国王と大小の領主が何層にも重なる封建制が形成された。領主は領地内で行政・司法・軍事・財政の権力を持ち、生殺与奪の権を一身に集め、独立王国のようになった。

フランク王国は統一戦争中にほかの蛮族王国を併合した。ローマのように属州を設置して中央が管理することはなく、貴族や教会に与え、領主の自治を維持した。いわゆる国王とは最大の地主のことだった。何代かの国王は死後に国土を子どもに均等に分けた。王権は地方化し、至る所に国王がいた。ゲルマン諸民族の後、スラブ諸民族が大々的に東欧に侵入した。前者と後者の建国方式や制度選択は全く同じだった。ローマ帝国以降、欧州が再び統一されることはなかった。これらの歴史を理解してこそ、ようやく将来の欧州政治の推移を理解できる。

 

欧州のほかの民族に対するフランク人の征服を描いた1850年の鋼版画『パーダーボルンのカール大帝』(写真提供・潘岳)

五胡は多民族中央集権官僚制へ

ローマ帝国の制度的遺産がすぐ目の前にありながら、フランク王国はなぜ逆に封建制を選んだのか?

ローマの法体系と官僚制はラテン語の法典と史書に記載されていたが、ゲルマン人の指導者は自民族にローマ文化を学ばせなかったため、これらの歴史的経験を把握できなかった。ゴート人の男子児童が母語しか学べず、ラテン語を学べず、学べば怒られたのと同じだ。

ゲルマン人の言語には8世紀まで文字がなかった。ギリシャ・ローマの文字を学ぶのを拒んだため、中世初期の約300年間(476年〜800年)にゲルマン諸民族は全般的に文字を書けなかった。知識欲旺盛なカール大帝は下手なラテン語を話せたが、やはり書けなかった。神聖ローマ帝国皇帝は全員が意外にも文字を書けなかった。宋の太祖と同時期のオットー大帝は30歳でようやく読み書きを始め、宋の第4代皇帝仁宗と同時期のコンラート2世は書簡を読めなかった。欧州の大多数の封建貴族は非識字者だった。

文字を書けなければ複雑な文書の処理も、文官システムの確立も、精密なローマ法の運用もできない。歴史家のブロックが指摘したように、「大多数の領主と多くの大貴族は(名目的には)行政官や裁判官だったが、行政官として自ら報告や伝票を書く能力はなかった。また、裁判官としては裁判所の聞き取れない言葉で判決を記載していた」。官僚制を運用して管理できなければ、広大な国土の管理能力を持たずに、簡便で実行しやすい封建制度を行うほかなかった。当時、エリート知識人を育成できたのは修道院と教会学校だけだった。諸侯らは領地にいる聖職者を頼りに行政を執行せざるを得なかった。数世紀の間、フランク王国の諸王の重臣には教会の人物が就いた。聖職者らは精神世界の解説者というだけでなく、行政権力の掌握者にもなった。

これはローマ帝国の政教関係とは異なる。ローマ教皇はローマ皇帝の勅令で確定し、全体的に皇帝の権力は教皇の権力より強かった。しかし、フランク王国では教会と王権が共同で天下を治めた。教会は全面的に政治に関わっただけでなく、大領主にもなり、王朝による徴税の企てに繰り返しうまく抵抗した。フランク人の行政権の譲渡は後のカトリック台頭の基盤になった。ローマの官僚制ではなく、ゲルマン人の軍事民主制から代議民主制が生まれたように、本来はゲルマン人の伝統の中にも貴重な遺産があったが、彼らはローマの制度をうまく導入できず、数百年に及ぶ宗教的独占を招いた。

ゲルマン人が自治と封建を選んだのは「自由な天性」によるものだと指摘する研究者がいる。ゲルマン諸民族は生まれつき「分居」と「独立」の生活様式を好んだとモンテスキューは考えた。「ゲルマン人の居住地は沼沢、河川、湖、森林で分割されていた。(中略)これらの部族は分かれて住むことを好んだ。(中略)これらの部族は別々になった時、全て自由で独立していた。まざり合った時にも依然独立していた。各民族は一つの国を共有したが、それぞれが自分の政府を持っていた。領土は同じで、部族はそれぞれ異なっていた」。このため、ゲルマン諸王国は独立して分散し、互いの融合を追い求めず、複数の中心を持つ枠組みを形成した。

中国の五胡は同様に草原と森林の遊牧民族だった。同様に砂漠や森林、渓谷で隔てられ、同様に自由を愛し、同様に遊牧社会の天然の「分散性」で制限されていた。しかし、五胡は遊牧の天性にいっそう適した自治・封建路線には決して戻らず、自発的に多民族一体の中央集権官僚制を復活させた。五胡の政権は多民族集団の政権で、もとより1民族1国家ではなかった。五胡の政権は多民族集団の官僚政治で、もとより宗教を代理としていなかった。五胡の君主らの多くは仏教をあつく信仰したが、政治的な意思決定を行う際、もとより仏教を判断の根拠とする必要がなく、仏教で末端に働き掛ける必要もなかった。彼らは発達した文官システムと官僚制運用能力を持っていた。北魏は仏教が盛んで、著名な石窟が開かれた。寺院は万単位、僧侶は100万単位で存在し、大量の寺戸(寺院の労働に従事した隷属民)と土地を抱え、フランク王国の教会と同じように大地主になった。しかし、北朝の君主は宗教に束縛されず、逆に寺院を閉鎖し、田畑を回収し、人々をあらためて戸籍に編入した。

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