中国の五胡と欧州の蛮族(6) 融合促した「天下の志」

2021-12-03 17:22:57

潘岳=文

歴史観が生んだ東西の差異

800年、カロリング朝フランク王国のカール大帝は教皇レオ3世から「神聖ローマ皇帝」帝冠を受けた。しかし、彼は決して「ローマ皇帝」の称号を好まず、「フランク王・ランゴバルド王」の肩書きを保ち、806年の著名な「王国分割令」の中でも「ローマ皇帝」の称号を用いなかった。

ローマ帝国との分離願望はフランク王国の歴史書に最も明確に表れている。

ローマ帝国の黄金時代において、ローマ年代記は「百川海に帰す」という内容だった。それによれば、異なる王国と多くの民族集団の源流が存在していたが、最終的にローマ世界に流れ込み、「神の計画」はローマ帝国で実現したという。一方、ゴート人とフランク人は自らまとめた歴史の中で自民族の独立した由来を強調し、ローマ帝国を歴史から取り除き、西部の属州に対する蛮族の「武力占領」を「自然に行われた継承」に変えた。こうした「歴史編さん運動」はフランク人の『フレデガリウス年代記』の中で次のようにピークに達した。「ローマの秩序」はこれまで存在したことがなく、「ローマ世界」は当初から一連の民族集団と王国の並行発展で、最後もローマ帝国に流れ込まなかった。ローマ人は単に多くの民族の一つにすぎなかった。

こうした転換を成し遂げた道具が「ゲンス(部族、氏族)」という概念だ。ゲンスはゲルマン人のアイデンティティーを強化し、かつて従属していたローマ帝国の秩序からゲルマン世界を解放した。民族集団を分けた管理制度はゲルマン世界の中心的な特徴になった。

カロリング帝国は異なる民族集団で構成されていた。宮廷史家らはフランク人、バイエルン人、アレマン人、チューリンゲン人、ザクセン人、ブルグント人、アキテーヌ人が共同で組織した連合体として帝国を描写し、共通点はキリスト教だけだとした。これによって欧州の歴史観は「ローマの治世」から「多民族集団で分割された世界」に向かった。

五胡政権の歴史観は蛮族の歴史観とは完全に異なっていた。それは民族集団を引き離す「天下の山分け」ではなく、民族集団を一体化させる「天下の融合」だった。

民族集団のアイデンティティーでは、欧州の蛮族史は自民族集団とローマの関係を徹底的に切り離し、はるか遠い始祖神話を探し求め、自分たちがローマ世界の「部外者」であることを証明しようとした。一方、中国の五胡の史書は部族の起源が中国と密接な関係にあることを論証しようとし、大部分の五胡の君主は地縁・血縁から自分たちが炎帝と黄帝の子孫であり、中国の身内だと証明しようとした。

民族集団の統治では、欧州の蛮族は法律を通じて人為的な区分を設置し、決して民族集団の雑居を実行しなかった。一方、五胡政権は常に多民族の雑居を唱え、大規模な移動、融合、戸籍編成といった人口政策を発展させた。この過程で五胡政権の大規模移民は50回余りあり、ともすれば100万人に達した。しかも、全て中心地域で行われた。北魏はさらに徹底し、部族の首長制を直接打ち破り、戸籍の編成を実行した。

世界観では、欧州の蛮族の歴史観は「民族」による身分が文化的な身分を決定するという点に固執した。これに対し中国の五胡の歴史観は、文化的な身分は民族ではなく徳行によって決まると強調した。五胡の君主らは孟子の「舜は東夷の人なり。文王は西夷の人なり。志を得て中国に行ふは符節を合するが若し。先聖後聖、其の揆一なり(出身地や時代が異なっていても聖人の道は一致している)」という言葉を引用するのを好んだ。

統一問題では、欧州の蛮族の歴史観はローマ世界が統一されるべきではなく、多くの民族によって分割して統治されるべきだと考えた。中国の五胡の歴史観はこれに対し、中華の天下は統一されるべきで、分割して統治されてはならないと考え、どの民族集団が政権を担おうとも「大一統(統一を尊ぶ)」を究極の政治目標とした。

政治的伝統の構築では、欧州の蛮族の歴史観は決して西ローマ帝国の遺産継承に熱を入れず、東ローマ帝国と正統を奪い合わなかった。一方、中国の五胡の歴史観はさまざまな方法で政権を中華王朝の正統の順列に置き、毎年南朝と正統を争った。

 

胡漢雑居が隋唐人を形成

とどまることのない300年の雑居と融合を経て、胡漢の民族集団は最終的に新しい民族共同体として隋人・唐人を形成した。現代中国の北方人の血統は胡漢が融合したものだ。こうした大融合は誰が誰に同化したということではなく、多方面の相互融合だ。政権や民族集団は短期間で興亡を繰り返した。どの民族集団が政権を握っても、雑居・融合政策が堅持されたため、「漢人」の数はますます多くなっていった。ここでまた、漢族の血統や遺伝子はどの王朝を基準にするのかという古い問題に戻ってくる。なぜなら、中華民族の大規模融合史は早くも2000年前に始まっていたからだ。

こうした歴史観を理解していなければ、なぜ五胡の君主が風俗習慣では祖先のスタイルを持ちながら、政治の手本を自分たちの英雄や祖先ではなく、漢人の諸皇帝としたのかを理解できない。こうした歴史観を理解していなければ、なぜ五胡がフランク人のように中国から分離しようとせず、強大か弱小かにかかわらず、「華夷の大一統」を理想としなければならなかったのかを理解できない。

ゲルマン人が「自由な分居」に慣れていたとすれば、中華の各民族集団は終始一貫して「天下の志」を抱いていた。ランゴバルド人は東ローマ皇帝のあざけりに対し、「私たちはローマ人などにはなりたくない」とだけ言い返した。一方、北魏人は南朝のあざけりに対し、「島夷(南の島の異民族)」とののしり返し、自分たちこそ中華の正統だと主張した。なぜなら、北魏は中原を占拠していただけでなく、古い文化を改め、漢人の礼楽(礼節と音楽)や典章をあがめていたからだ。五胡のこうした気概は欧州の古代ゲルマン人には想像できないものだ。

五胡の成功により、北朝と南朝は後の隋唐文化を共につくり出した。素朴で簡略な漢朝の文芸に比べ、隋唐の文芸は力強く豊かだ。北魏と北斉、隋唐の石窟の像はガンダーラ芸術、グプタ芸術、魏晋の風格を融合させた。隋唐の七分楽と九分楽には中原のメロディー(「清商伎」「文康伎」)だけでなく、北朝で流行した異境の音楽(「高麗伎」「天竺伎」「安国伎」「亀茲伎」)もあった。琵琶はもともと西域で誕生し、唐人が胸中を伝える道具にもなった。北アジア風とペルシャ風は決して「異質」な文化とは見なされず、あらゆる中華民族集団に愛された。

五胡は自分を失ったのか、それともより大きな自分を勝ち取ったのか?

こうした「天下の志」を理解していなければ、「民族集団の融合」を「民族集団の同化」と誤解し、「文化の融合」を「文化の流用」と誤解する可能性がある。もし欧州民族主義の狭窄なパラダイムで考えるなら、民族的アイデンティティーによる政治文化の中で永遠に堂々巡りをするだろう。

 

5世紀、北魏に造営された雲岡石窟(山西省)。主要な洞窟が45、石像が5万1000体あり、胡漢の多民族文化の特色が融合している(写真提供・潘岳)

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