中国の五胡と欧州の蛮族(7) 中華文明のより高度な試練
潘岳=文
「文治」で古代世界をリード
異なる歴史観は異なる文明に由来する。中国の五胡は中華文明の「合の論理」を発揚し、欧州の蛮族はローマ文明の「分の論理」を増幅させた。
ローマ帝国の制度的本質は末端自治だ。後の欧州はどのような政治体制を採用しようと、国家統治の枠組みには全て都市の自治、民族集団の自治、領主の自治の形態を自然に包蔵してきた。古代ギリシャの都市国家の民主政治からローマ帝国の自治都市まで、また城が林立した中世初期の封建王国から中世後期のイタリアの都市共和国(ベネチア、ジェノバなど)まで、「小さな共和国」プランに従って建てられた北米の各州による共和国から「1民族1国家」モデルで建てられた欧州の国民国家まで、いずれもそうだ。
どの時代であっても、欧州人の制度史観と価値観の中で末端自治はコアパスワードだ。ローマ帝政時代の歴史家タキトゥスが発見した「蛮族の自由」から、フランスの啓蒙思想家モンテスキューが称賛した蛮族の独立・分散居住の性格まで、またフランスの政治家・歴史家ギゾーが発見したアングロ・サクソン人の地方自治の伝統に起源を持つ代議制の精神から、フランスの思想家トクビルが調査した米国の民主を支える地方自治まで、全ては中国の歴史家・銭穆が次のように指摘した通りだ。「欧州史をひもとくと、彼らはギリシャ以来常に四分五裂し、それぞれが建国し、互いに協力してこなかった。強敵や危機を前にしても、各地域は打ち解けて協力し合うことができず、依然として元のままだった。(中略)西洋史は複雑に見えて実際には単純だ。外見は複雑だが、中身は単純だ。(中略)西洋史におけるいわゆる英国人とフランス人は化学における一つの単位にすぎないが、中国史における中国人は化学における混合製剤のようなものだ」
これに比べ、中国ではどのような上部構造を打ち立てるかに関係なく、国家統治の基盤は全て県・郷2段階の末端政権だった。英国の政治学者サミュエル・ファイナーが指摘したように、中国は現代的な官僚機構の「発明者」だ。秦漢が「大一統(統一を尊ぶ)」の中央集権郡県制国家を築いて以来、末端政権構築は中央が派遣し管理する文官システムの中に組み込まれた。歴史上、極めて短い封建割拠もあったが、大一統の中央集権郡県制が一貫して主流だった。政治的実権のない食邑(臣下に与えられた領地)制度、末端の官紳の協力制度など、中国は一部に封建制の変異体を残していたが、それらは限られた自治だった。国家権力はとうに社会構造の各組織の中に入り込んでおり、欧州式の末端自治は存在しなかった。
ローマの目から秦漢を見ると、中央集権の弱点は取るに足りない事柄が全体に影響を及ぼす点にあり、地方の反乱が簡単に全国的な暴動に拡大してしまうと考えられるだろう。これに比べ、ローマの歴史で起きた反乱はごく一部を除いて地方のものであり、それは末端自治の長所だった。ファイナーは「漢帝国の存続を脅かした中国式の農民蜂起はローマでは発生しなかった」と考えた。
秦漢の目からローマを見ると、ローマ以降の欧州において、民族・宗教による文明の衝突が1000年続いて絶えなかったことが奇異に感じられるだろう。4~6世紀には東ローマ帝国とペルシャの6回の戦争、7~11世紀にはアラブ・東ローマ戦争、8~15世紀にはイスラム教徒に対するキリスト教徒スペイン人らのレコンキスタ(国土回復運動)、10~13世紀には十字軍の9回の遠征、13~15世紀にはオスマン・東ローマ戦争、イングランドに対するスコットランド独立戦争、1618~48年には全欧州を巻き込む三十年戦争が起きた。民族・宗教が本当に和解した世紀はほとんどなかった。「文治」の面では、中華文明は古代世界全体をリードしていたといえる。「ローマの自治」がより優れていると考えたファイナーであっても、次のように認めざるを得なかった。「漢帝国はほかの国や帝国(特にローマ)とは異なり、軍事的栄誉を軽視し、軍国主義に心から反対した帝国だった。その特徴は『教化』、つまり中国人の言う『文(文化・教養)』にあった。こうした宗教上の寛容さと文明教化の提唱が帝国の栄光と理想を築いた」
四川省広元の昭化古城(葭萌関)。古代中国で最も早く郡県制管理を実行した土地の一つで、2300年余りの歴史を持つ(写真提供・潘岳)
「大一統」を障害と見る誤解
都市国家の政治から封建自治、小共和国、米国の地方自治まで、西洋社会では「小さな共同体」で生きることが好まれ、最終的に自由主義で個人権利を第一とするようになった。中国社会にも家族や郷紳、各種民間団体などのさまざまな「小さな共同体」があったが、常に一つの「大きな共同体」、すなわち「家国天下」が追求されていた。
西洋の多くの学者は自信を持って次のように考えている。「西洋の中世の分割と戦乱は逆に進歩をもたらした。なぜなら、前近代の欧州に起きた一連の戦争によって欧州の常備軍、理性的な官僚制、現代の国民国家と資本主義的工業化が生み出されたからだ。あまり激しくなく、数百年続き、互いを一度に滅ぼせないこうした局地的な戦争により、敗れた側は絶えず経験を総括し、技術の蓄積を推進できた。封建社会の分裂性と階級性は商業資本の発生に都合がよく、商業に支配された独立都市が出現し、より容易に資本主義に向かえた。こうした封建制、弱国、多国間競争システムこそ、近代欧州が全ての古代文明を超越した理由だ」
これには次のような言外の意味がある。「中国はあまりにも統一されており、1000年に及ぶ局地的な戦争や多元的な競争システムがなかった。また、中国はあまりに集権的で、世襲貴族や商人に支配された自治都市がなく、資本主義的工業化を生む手立てがなかった。このため、『大一統』はかえって歴史の進歩の妨げになった」。しかし、もし中国人に「1000年の『戦国のジャングル』と『民族・宗教の衝突』に耐え、それと引き換えに原始資本主義を誕生させることを望むか」と問えば、多数派の回答は間違いなく否定的なものになる。中国の春秋時代には多国間競争と分封制度があった。秦が六国を滅ぼして統一できたのは、また漢が「暴秦」の世論の下でなおも「漢承秦制(漢、秦制を承く)」を堅持したのは、戦国300年間の大規模な戦争によって民間に「天下共に戦闘の息まざるを苦しむは、侯王あるを以てなり」というコンセンサスが成立していたからだ。中国は分割と戦乱の段階を経験しなかったのではなく、それを経験し、かつ放棄していたのだ。いわゆる「常備軍」と「理性的な官僚制」は欧州より1800年早い秦漢の時代に存在していた。中華文明の現代的モデルチェンジに対する真の試練は、大一統を維持した基盤の上で、どのように秩序と自由を同時に実現し、どのように「大きな共同体」と「小さな共同体」の制度的な利点を同時に兼ね備えることができるのかという点にある。これは西洋の多元的自由主義よりも高い基準だ。