中国の五胡と欧州の蛮族(9) 統一が支える多元的文化
潘岳=文・写真提供
秦漢の時代、趙佗(紀元前240〜前137年ごろ)は中央政府を代表し、中原地域の農耕技術と先進的な文化を嶺南(現在の広東・広西一帯)に伝え、漢族と南方の少数民族の融合を大いに推進し、大一統の構築を速めた
乱世に強調された「区別」
「華夷の区別」は古代から語られ続け、今も「中国とは何か」という議論を巻き起こしている。多くの論者は歴史書の片言隻句を持ち出して争うだけで、歴史全体を考慮していない。
最初の「華夷の区別」は『春秋公羊伝』の「南夷と北狄交はり、中国の絶へざること線の若し」に現れている。「北狄」とは、斉の桓公が初めて尊王攘夷(周王を尊び、夷狄を討伐する)の対象とした「白狄」を指し、「南夷」とは楚国を指す。しかし戦国時代、特に秦漢の時代になると、かつての「華」と「夷」は全て戸籍に取り込まれ、世のあらゆる場所で法が実施され、民族集団の区別はなくなった。
「華夷の区別」の第2のピークは南北朝時代で、互いを夷狄と呼び合って正統を争った。唐代に「華夷の区別」は弱まった。唐の太宗は「古より皆中華を貴び、夷狄を賤しむも、朕独り之を愛すること一の如し」と述べた。朝廷の内外は各民族のエリートばかりだった。後の「安史の乱」は民族問題ではなく、節度使が強大になったことが原因だった。
第3のピークは宋代だ。宋朝の経済・文化は頂点に達したが、統一力はなかった。遼・金・西夏の軍事的な強勢に直面し、宋朝は自ら立ち位置を固めて優劣を区別するほかなかった。真宗は天書の降下を自作自演して封禅(天子が天地を祭る儀式)を行い、士大夫も「華夷の区別」を発揚した。ただ実際には遼・金・夏は全て漢文明を吸収しており、南北で同じ言葉を話していた。元代に「華夷の区別」は再び希薄になった。いわゆる「四等身分制度(元朝の支配者が漢族やほかの少数民族に対する支配を維持するため、モンゴル人の身分を最高の第1等とし、被征服地域の民族を順に西域の色目人、北方の漢人、南方の南人に分けた制度)」については今でも議論がある。
第4のピークは明代中期だ。朱元璋は当初、反元復漢を掲げていたが、ひとたび国を建てると、元朝が中原の支配者になったことを「天命」だとすぐに認め、天下統一を広く宣伝した。「華夷に区別はなく、姓氏は異なっていても同様に慈しむ」と述べ、フビライを歴代帝王廟に入れ、三皇五帝や両漢・唐・宋の開国皇帝と共に祭った。しかし、土木の変で英宗が捕虜になった後、明朝のプライドは大いに傷つき、フビライを廟から外した。
第5のピークは明・清の移行期だ。康煕帝が孔子を崇拝した後、清の歴代皇帝は徹底的に漢文明を推し広め、「華夷の区別」は再び解消された。
「華夷の区別」は文化と制度によって論じる。そのため、中華の儒学伝道の系統、法の伝統、政治の伝統を承認しさえすれば、天命を得られた。なぜなら天下は全てを受け入れるからだ。「華夷の区別」の強弱は国家の統一と分裂に応じて決まる。おしなべて分裂の世には各民族集団が互いを夷狄と呼び合い、統一王朝の時代には為政者が「華夷の区別」解消に力を注ぐ。かつてローマ帝国もそうだった。
政治的統一こそ文化多元化の基盤
ローマ帝国全盛期の哲学はコスモポリタニズムだった。タキトゥスがゲルマン人の民主、尚武、天性の純朴さなどの「優れた風俗習慣」をたたえたように、4世紀以前、ローマの歴史家たちは「蛮族」を大いに称賛した。マクシミヌス1世、ピリップス・アラブス、クラウディウス2世など、ローマ帝国中期以降の多くの皇帝は「蛮族の血統」を持っていた。ガイナス、サルス、バクリウス、アエティウス、オビダなど多くの名将も「蛮族」出身だった。西ゴート人の侵入に抵抗した名将スティリコもバンダル人だった。4世紀以降、帝国は分裂し、ローマ人は蛮族を憎むようになった。ある歴史家は6世紀、大量の蛮族を引き入れて帝国衰亡の元凶になったとして、コンスタンティヌス1世を非難した。一方、蛮族の人々も英雄のルーツを論証するようになった。例えば、東ゴート王テオドリックは晩年、ボエティウスに裏切られた後、宮廷史家に『ゴート史』執筆を指示し、一族17代の輝かしい歴史を強調した。
各文明の内部には共通点と相違点がある。共同体が分裂した時、政治的中心は境界を確定して自己を強固にするため、永続的な分裂に至るまで必ず差異を誇張し、共通点を低く評価する。たとえ同一の祖先、言語、記憶、信仰を持っていたとしても、複数の政治的中心が存在する限り、必然的にこの悲劇が生まれる。宗派の分裂や民族集団の瓦解でも例外はない。
政治的統一こそ文化が多元的に存在する基盤だ。政治の一体性が強まれば強まるほど、多元的な文化が自由に個性を伸ばせる。政治の一体性が弱まれば弱まるほど、多元的な文化が互いに争い、最終的に消滅するだろう。一体性と多元性は決して対立するものではなく、両立するものだ。一体性と多元性の弁証法的関係を理解していなければ、世界を分裂させるだけでなく、自らを混乱させてしまうだろう。
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