笹川陽平・日本財団会長:真の信頼で築く共同事業 国民相互の理解深めたい
王衆一=聞き手
王衆一・本誌総編集長のインタビューに答える笹川会長(写真・袁舒/人民中国)
多くのグローバルな人材を育成し、中国の発展の大きな支えとなった笹川良一ヤングリーダー奨学基金(Sylff)中国プロジェクトが、今年で25回目の「誕生日」を迎えた。Sylffプログラムを計画、実施している日本財団の会長を務める笹川陽平氏は、長年にわたり医療、教育、文化交流などの公益事業に励んでいる。1985年、父の故笹川良一氏とともに初めて訪中。以来、中国との関わりは深く、常に考えているからこそ見いだせる中日関係の方向性がある。民間交流にまつわる秘話や中日両国の未来に対する思いなどについて、王衆一・本誌総編集長が話を聞いた。
知的交流・人材育成に注いだ熱き思い
――中国でSylffプログラムを実施して25周年を迎えました。日本財団による笹川日中友好基金は1989年から、そしてSylff中国プロジェクトは92年から始まりました。タイミングとして、その時期に集中したのはどうしてですか。
笹川 当時、中国は本当に最も困難な時期でした。父の笹川良一は、「困っているところの友人に手を差し伸べてこそ真の友情で、日中関係をより良好な関係にするために、何かを考えて実行しろ」と私に指導しました。それで中国政府と話し合ったところ、我々の気持ちを受け入れて下さり、プログラムがスタートしました。
具体的な背景については、こういう秘話があります。当時G7(先進7カ国)が中国に経済制裁をかけていましたが、楊尚昆国家主席と私が人民大会堂で会談し、経済制裁の解除に何かできないかという話が出ました。私は「できるかできないかは分かりませんが、最善を尽くしてみます」と言って帰国し、すぐに竹下登元首相に会って話をしました。竹下さんの活動により、安倍晋三さんのお父上で当時の安倍晋太郎外務大臣が米国に話を伝えましたし、海部俊樹首相もG7のヒューストンサミットで、「日本と中国は特別な関係なので、是非とも経済制裁を解除したい」という発言をし、日本のアピールで中国に対する経済制裁が解除されたのです。その後、7600億円の第3次円借款も再開し、改革開放を続ける中国の経済発展に寄与しました。私にとっては、いい仕事をさせていただいたと思っています。今、中国の発展ぶりを見て当時を思い起こしますと、本当に夢のような感じがしますし、私たちのささやかな協力を少しでも中国の皆さんが評価してくだされば、これに過ぎる喜びはありません。
Sylff中国プログラム発足25周年を祝う式典の終了後、Sylffのフェローたちが笹川会長を囲んでの記念撮影。これまで奨学金で学んだフェローたちは今、奨学生時代から培ってきた力を発揮し、さまざまな分野で中国の発展をリードする優秀な人材に成長している(写真・郭莎莎/人民画報)
――Sylff中国プログラムは、これまでと今後では何か変化と調整はありますか。
笹川 25年前の中国はまだ貧しい時期でしたので、広く浅く奨学金を出したいという大学側の意向で、奨学金の量が多かったんです。欧州や米国の場合は、生活レベルも相当上がっていましたので、人数を絞って、より優秀な人に与えていましたが、当時の中国では広くチャンスを与えようという考えがありました。したがって、いままでのSylffプロジェクトの中で1万6000人のフェローを輩出していますが、その半数以上が中国の学生でした。
それぞれの大学で歴史や文化が違いますので、今までは大学の自治に任せてきましたが、今回、北京大学を含めて10校の大学と協定書を交わしました。10大学が協力して方向性を出し、今後全てのフェローを同一の基準で選んでいくというものです。中国の教育部も参加してくださり、これからは10大学が一致して一つの方向に向かい、質の面でもっと向上させていこうということになりました。
――今まで続いた笹川日中友好基金とSylff中国プログラムのめざす目標は何でしょう。
笹川 隣国と隣国の関係はデリケートなもので、日本と中国のような2000年も存続している隣国同士は珍しく、相互依存の関係を大変うまくやってきたと思います。もちろんそれは山あり谷ありの繰り返しの歴史でもあります。山高ければ谷深しなので、これからの未来に向かって、この落差をできるだけ縮めていく努力をしなければいけません。つまり、お互いが違いを認め合ってよく知ることが大事です。
私は政治家ではないので、市民の立場からお互いが交流をより深め、相互理解を進める仕事を通してそういう努力をしてみたいです。これこそがわれわれの目標といっていいでしょう。笹川日中友好基金は近年、日本の学術書100冊の中国での翻訳・出版を支持しました。また、Sylff中国プログラムはたくさんの中国の学者を育ててきましたが、それを通して親日家を作りたいという考えはまったくありません。知日家になって欲しいと思っています。日本とはこういう国だということを知ってもらうことが大事で、お互いの違いを認め合わないといけないと、私は思っています。その精神はこれからも変わりません。
等身大の中国を実感
――Sylff中国プログラムを実施した25年間の中で育った人材で、会長として印象の残った人はいますか。どんなエピソードがありますか。
笹川 私はいろんな人と会ってきましたので、それぞれに思い出はあります。中国の人々は本当によく勉強されていました。たとえばチベットから来たある医学生は、1年後にチベットに帰ったら粗末な食べもので生きていかなくてはならないからと言って、日本のごちそうを食べないで頑張っていました。日本で外科の手術はできませんでしたが、帰国後1年経って、主任教官が彼から「チベットに来てください」と誘われたので、どうしているかなと思ってチベットを訪ねたら、チベットでは「神の手」と言われるくらい有名な外科医に育っていたというのです。そういう非常に喜ばしい話もありました。
もう一つはプログラムが始まって6年目か7年目のころの話です。大晦日の31日に1人が交通事故で亡くなられて、お気の毒なことでした。私はさっそく現場まで飛んで行きました。その人は人民解放軍のお医者さんだったので、自宅を訪問して、お線香を差し上げました。そのとき奥さんは涙一つ流さずに、「本当に感謝してます。ただ元気で帰ってきてくれなかったことが残念ですが、私は、夫の代わりに娘を医者にしてみせます」と言っていました。涙一つ見せず、恨み言一つおっしゃらなかったのが非常に印象的でした。
――会長は中国でのプログラムの実施で各地を回ったと思いますが、何か印象に残ったことはありますか?
笹川 貴州省の山奥で、8年間嫁が来なかったという村に行ったことがあります。アフリカで30年間農業指導をして来て、さらに中国でも食料の増産についてやりたいというアメリカのノーマン・ボーローグ(Norman Ernest Borlaug)博士と一緒に現地に行って彼に指導していただきました。ボーローグ氏はその村で養豚場を試み、質の高いトウモロコシを豚の餌にし、大成功しました。8年経って現地を再訪したら、今では(この村の男性に)嫁にもらってくれという人が列をなして困っているというんです。養豚の成功で、貧困状態の村人の生活はすっかり変わりました。それが印象的でしたね。
また、私が終生の仕事にしているハンセン病の世界制圧についての話です。中国には、山の中に(ハンセン病患者が)集団で生活している定着村があります。私たちが指導した日本人の学生ボランティアたちは、年間1000人くらいが広東省を中心に定着村に入っています。それと同時に中国側も各大学から大学生が定着村に入り、ボランティアでトイレの修理などをしています。若い人たちがそこで寝泊まりしながら、井戸掘りなどをして、村の状況改善に取り組んでいる姿を見ていると、中国はやっぱり拝金主義だけじゃないなと、若い人の中にはそういう正義感を持っている人もたくさんいるんだなと感心しました。
中国の変貌について印象を述べますと、本当に至る所で近代化が進み、感動よりも驚きが多く、よくぞ30年でこんな町を作っちゃったなと思います。だからやはり山奥に入りたいですね。しかし、たとえ九寨溝にしろ、私が最初に訪ねた時は、山から岩石がガラガラ落ちてくるような危ないところを車で十何時間もかけて乗り越えて行ったものですが、今では飛行場ができて簡単に行ける時代になりました。
日本財団の笹川陽平会長(写真・顧思騏/人民中国)
現場主義で築きたい中日関係
――ようやく「谷底」を出て、中日関係が軌道に戻ったいま、これまでも含めてこれからの交流について会長のお考えをお聞かせください。
笹川 これについて秘話があります。日中関係のタイミングをどこで取ろうかということは、両国政府も一生懸命努力されてきたかと思うんですが、実は笹川日中友好基金が、6年間も中止されていた人民解放軍と自衛隊の防衛交流の再開に何かしようと考えていた時に、中国側はすでに一つ予定を考えていたんです。今年2月に私が中国に行って、「4月に防衛交流をやりたい」と言いました。私は日本の防衛省には何も話していませんでした。すぐに中国の国防部長(大臣)は実行に移し、外務大臣の王毅さんも加わりました。そして李克強総理もお見えになって、その後たった2カ月で交流が再開し、安倍首相が習近平主席に会うということになります。私は一番敏感な防衛交流から入るという、中国側の戦術を見ました。一本筋が通っているんですね。
――山あり谷ありの時代を生きるわれわれですが、今後の中日関係や民間交流について会長のお考えを聞かせてください。
笹川 この6年間の少し冷えた関係を反省してみますと、日中はこれではいかんなと、双方の政治家が感じ取ったんだと思います。米国にあんな変わった大統領が出てきて、貿易戦争という違った形の「戦争」を引き起こし、今までの国際秩序がどんどん崩壊しているという中で、日本と中国が世界の中できちんと存在感を示して手を結ぶ必要があると、双方の政治家も分かったのではないかと私は思います。
両国関係とで言いますと、日本は中国の食料品がなくては生活できませんし、中国も日本からの投資をたくさん受け入れています。意識をするしないにせよ、お互いの補完関係はすでにできているのです。これを更に広く深くしていく努力を日中双方でやっていくことが、未来志向の日中関係ではないでしょうか。次世代の交流は大事です。作文コンテストはいい考えですし、アニメというのも大変重要なものです。防衛交流はすでに再開しましたが、私が今お願いしているのは、日中合同の災害救援活動をやってほしいということです。日本も中国もよく災害に見舞われ、また、フィリピンやインドネシアなどは津波も火山の爆発もあるので、そういった地域でも活動できればと思います。
民間交流というのはいろいろやるべきところがあると思います。理念も大事ですが、もっと重要なのは行動だと思います。市民レベルで行動しないと、ディスカッションだけで終わってしまうのではしょうがないです。共に汗して活動して、初めて一体感や信頼関係が湧きます。私はどちらかというと、現場主義で行きたいと思っております。
(構成=袁舒)