禅に関する論争
劉檸=文
1920年代から、鈴木大拙(1870~1966年)が英語で記した一連の禅学の著作は、禅を東洋から西洋へ、世界へと広め、最終的にZenとして定型化されるのに極めて偉大な功績があった。そして彼の公認された最も重要な学術的貢献の一つが『禅と日本文化』である。
『禅と日本文化』は、大拙が禅文化および自身の禅の思想を系統化し、詳しく述べたものであり、美術・武士・剣道・儒教・茶道・俳句などの側面から一つの万華鏡をつくり上げようとし、それによって立体的に禅を示し、さらにはわび・さび、幽玄、非対称などの禅の核心となる要素を表現している。しかし、いったいどのようにしたら、そのようなたぐいまれな素晴らしい禅の境地に達することができるのか。大拙が提案するその方法とは「体験」で、なぜなら禅は非思弁的思考で、いかなる理性的判断(分別)をも拒絶するからだ。これは実は大拙が一貫してとってきた立場であり、彼と中国の学者である胡適との間の論争を思い起こさせる。
胡適は近代主義的立場から出発し、実証的な方法で禅宗史を研究することを主張し、「禅の文献学研究を踏まえぬ抽象的思弁は、学問的にまったく価値がない」と言ったが、(学者の坂東性純によると)大拙は「禅体験を伴わぬ禅籍の字句の解釈・討論は、禅と無縁のもの」と考えている。胡適は、「鈴木本人と彼の弟子の説によると、禅は非論理的・非理性的なものであり、ゆえに自分の知性で理解できるものではないものでもある」と言った。これに対し大拙は、「胡適先生は禅の歴史にとても多くの知識をお持ちだが、禅の歴史の背後において主役を演じていたものについては、まったくご存じない」と批判している。「いわゆる禅は、その内部から理解すべきものであり、外部から理解できるものでは決してない。つまり、まずは私のいう般若直感の論に達すべきである」。幾度かにわたって論争が行われたものの、優劣はつけ難く、最後には英国の東洋学者であるアーサー・ウェイリーが乗り出し、胡適に勝利の判定を下して、一応の終結をみた。
純客観的な第三者の立場からこの論争を見るならば、そもそも論争の出だしから、二人の出発点がかけ離れていて、この論争は勝敗がつかないものとして運命づけられていたと言える。直言すれば、二人は近代主義と反近代主義、理性と反理性、学問と知恵という異なる立場に立っていて、このような根本的な対立の白黒をつけるのは難しいことだと、二人はどちらも心中ではっきりと分かっていたに違いない。そのため、論争は論争、友情は友情というわけで、「彼らはニューヨークから横浜まで、中国料理を味わいつつ、穏やかに問題について語り合い、いかなる不調和も感じられなかった」「1953年に起きたこの論争は、お互いの観点は違えども、彼ら二人はもともと互いをよく知る仲であり、とっくに和解に至っていたとも言える」(禅学者の小川隆の言葉)。
この禅学史上の著名な難事件は、90年代以降、一部の欧米学者が日本の禅宗が第2次世界大戦中に戦争に協力し、禅により日本の民族主義を強化したと批判したことを、私に思い起こさせた。その中には鈴木大拙およびその終生の友であった西田幾多郎に対する疑惑も含まれていた。この問題に関しても、『禅と日本文化』の本に戻ることができる。この本は英語により西洋の読者に禅宗文化を紹介する啓蒙書として、かなりの程度、新渡戸稲造の『武士道』(1899年)と岡倉天心の『茶の本』(1906年)と同じ系譜に属するといえ、ある意味で「広報」的色彩を帯びたものであった。小川隆の言葉を借りるならば、大拙は「『禅』と『日本』を同一視して論述している」ものであり、彼は西洋の読者に禅を啓蒙するというよりも、日本を啓蒙していると言ったほうがよいだろう。