新しい種類の都市テキスト
劉檸=文
『ヨコハマメリー――かつて白化粧の老娼婦がいた』は分類が難しい本で、小説でもノンフィクションでもなく、その中間の形態であるように思う。しかし、こうした形態がちょうど周縁的なテーマと人物に適していて、私がみるに、新しい種類の都市テキストである。厳格に言えば、この本はドキュメンタリー映画の撮影手記だ。このため、テキストは先天的にある種の視覚性を帯びている。これは文字自体に臨場感があり、さらにはある種ドキュメンタリーフイルム式の芸術手法が含まれ、例えば現実と歴史シーンの切り替えには、モンタージュ的な技法が使われている。
日本の戦後史と都市発展史をいくらか知っている人ならば、「ヨコハマメリー」という名に聞き覚えがあるだろう。戦後間もなくから1995年末まで、横浜の繁華街で、歌舞伎役者のような白塗りの顔で、目を黒く隈取りし、真っ白なドレスを着た金髪の女性をしばしば見掛けた。彼女の扮装はいつでも同じで、横浜で最も神秘的な都市伝説の一つだった。ひと昔前なら「パンパンさん」、今では三無(無職、無住所、無社会保険)の街娼であるメリーさんは、「最下層民」として取り除かれることはなかった。逆に、彼女は馬車道のアートビル1階のパブリックスペースに「指定席」があり、女性トイレの洗面台が彼女専用の化粧室で、喫茶店には自分専用のカップもあった。当然専用カップの背後には、喫茶店が他の客に文句を言われるのを恐れたためということもあるだろう。95年末、メリーさんは横浜を離れ、故郷に戻った。彼女の曲がった背中と不気味な白い姿が街角から消えたとき、人々は初めてこの有名な都市伝説が本当の「伝説」になったことを悟ったのだ。
本書の作者で、同名のドキュメンタリー映画の監督でもある中村高寛は、かつて北京電影学院に留学しており、張芸謀(チャン・イーモウ)や呉文光(ウー・ウェンガン)、姜文(ジャン・ウェン)ら中国映画人の強い影響を受けていて、彼の都市の弱者に注目する視点は、日本の社会派ドキュメンタリー映画の伝統を受け継いでいるだけでなく、中国のインディペンデント映画の影響も受けている。作品では伝奇的人物であるヨコハマメリーの一生を追い、さらにメリーさんと交友のあった人物やその人間関係の再現により、都市の孤独な人々を描き上げ、読者に彼らの物語に共感と悲しみを覚えさせると同時に、戦後の盛り場や、放蕩に溺れる資本主義都市文明の暗部をのぞき見させるものだ。さまざまな理由から出世街道からはじき出され、社会ピラミッドの最下層で懸命にもがかざるを得ない、さまざまな周辺人たちが発するヒューマニティーのかすかな輝きは、また作品に一種の文学以外の歴史学・社会学的意義という「付加価値」を与えている。訳者の王衆一の言葉を借りれば、「同名のドキュメンタリー映画に比べると、この書籍には映画の舞台裏の物語が数多く記述されていて、これはドキュメンタリー作品の構想・撮影・制作の手記であるだけでなく、口述史、メディア資料の引用、作者が実地調査した一次資料を取り混ぜた著作でもあり、極めて手堅く、温かみのある都市伝説史・裏社会消失史となっている」。
これは言い得て妙といえる。私からすれば、こうした正史の背後にある都市文化史、「内側」史、社会世相史の表現は、「正史」の価値にもひけをとることはなく、ひいては一種の恒久的な価値を持つものである。