湯川秀樹の1945年

2022-08-05 11:24:54


劉檸=文 

2020年9月、『湯川秀樹日記1945――京都で記した戦中戦後』が出版された。これは、著名な物理学者である湯川秀樹の1945年元日から大みそかまでの1年間の日記であり、編者による説明や『京都新聞』記者の取材手記も添えられていて、まさにサブタイトル通り「京都で記した戦中戦後」という内容であり、湯川の心理変化の過程や思想転換の重要な史料となっている。 

湯川は日本で生まれ育った学者で、昭和前期の軍国主義化を体験していたものの、強烈な自由主義的傾向を持っていた。客観的に見れば、敗戦は湯川の自己反省の契機・原点となった。彼は『週刊朝日』の45年10月28日・11月4日合併号で、「静かに思ふ」(湯川秀樹日記1945に収録)という文章を発表し、戦後日本の位置付けと起点をはっきりと意識し、「日本はこの戦争に敗れたのである。今後長い間敗戦国としての苦痛を堪え忍んでいかねばならぬのは必然の運命であり、また当然の義務でもある」と記している。さらに彼は、「日本は単に戦に負けただけではなかった。人類に対して大変な罪をも犯していたのである。私どもの身近に見い出す日本人の中にはかような凶暴性は平素決して見い出されぬにもかかわらず、一部の前線将兵を駆ってこの罪過を犯さしめた原因はどこにあったのか。われわれも同じ同胞として果たして罪がないといえようか」と言う。 

このような問い掛けは、後に全国の知識界を席巻するいわゆる「一億総」式の戦争反省思潮の先触れとなるものと言えるだろう。敗戦に対する反省、特に戦争犯罪の根源に対する思索、それに加えて核兵器の研究開発プロセスに関わったことから生まれたの意識は、ますます個人と国家の関係という問題に湯川の意識を向けさせることになった。 

「(敗戦の第二の原因は、)個人・家族・社会・国家・世界というような系列の中から、国家だけを取り出し、これに絶対の権威を認めたことである」 

湯川は、「総力戦」体制をはじめとする「絶対国家」と、最も早く決別した知識人の一人だと言って良い。ここから出発し、彼は自覚的に宇宙とミクロ世界の真理を探求し、教育と後継者育成に力を注ぎ、科学者の立場から社会へ発言するという「三位一体」の態度で、核兵器と核拡散に反対し、核エネルギーの平和的利用のために努力を惜しまなかった。55年、核兵器廃絶を呼び掛けるラッセル=アインシュタイン宣言に署名した。その2年後、この宣言を契機に「科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議」が成立すると、湯川はこの中心メンバーの一人となった。95年、この組織の核軍縮への努力に対し、ノーベル平和賞が授与された。 

再度この日記に戻ると、『湯川秀樹日記1945』は、湯川の仕事に関する日誌であるだけでなく、科学者の視点から京都の戦時中の日々を観察した純私的な日記であり、出版を目的としたものではなかった。そのため、これには戦時中の学界の状況、京都を中心とする西日本の状況など、学者の日常生活が多く記録されていて、45年という日本の「終戦」の年のことを客観的に理解させてくれるもので、とても得難い参考文献となっている。中にはわれわれの持つ歴史的認識を改めさせるような細部の記載も数多くある。例えば、戦時中米軍は、日本の主要都市への爆撃戦略で、京都と奈良という二つの古都を避けていたと筆者はずっと思っていた。しかし実際には、京都市の中心部も一度ならず何度も爆撃に遭っており、戦闘機が来襲するたび、京大の教職員たちへの避難警報もまた「日常茶飯事」であったなどだ。 

(引用文は全て現代仮名遣いに改めている) 

 

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