人気を博した京都批判の書

2022-08-30 12:08:29

劉檸=文 

  

2017年の夏、京都人が京都の批判をする『京都ぎらい』という書籍が、日本の大型書店の新刊ベストセラーに名を連ねた。作者の井上章一は優れた建築史家・文化学者で、国際日本文化研究センターの教授であるが、彼は飽くことなく、一般向けの分かりやすい文体で、権威にあらがい、定説を覆している。私は彼の著書を以前からずっと愛読している。この本も例外ではなく、からかうような口調で京都をけなし、時には自嘲も加わるものの、本質的には史実とデータに基づいたしっかりした文化研究であり、作者自身の言葉を借りれば、「被害者の視点」から記した京都論である。 

京都は世界の中でも最も地域蔑視が激しい都市かもしれない。その激しさは上海の浦西の浦東に対するもの、北京市内の郊外に対するものをはるかに上回る。京都府出身の人なら、自分が洛中の出身でない限り、普通、自己紹介のときに、「京都出身ですが、洛外です」と付け加えるだろう。思い返してみれば、私の何人かの京都の友人もそうであった。当初、私はその意味が分からなかったが、後にそれは一種の免責条項であることが分かった。この言葉を付け加えることで、自分が「」しているというそしりから逃れることができ、同時に洛中の人の「のけ者」の対象にならずにすむからで、一石二鳥といえる。 

京都人のこうした自分と他者に対する「ウチとソト」の関係の判断基準には、彼ら独特の言葉(いわゆる京ことば)を操るときの巧みな技と、それによって得られる快感もどきも含まれていて、これは確かに他の地方の日本人とは全く異なるものであり、一種の文化現象とも言えるものだ。 

例えば、友人が奇妙な髪型をしているのを見たとき、東京の人なら、「変な髪型ね」と言うかもしれないが、京都人は、東京人はあまりにあからさまで、上品ではないと感じる。彼らは「ほんまモダンな髪型やから、特別なデザインの服が似合うやろ」とでも言うだろう。これはとてもソフトな言い方に聞こえるが、よく考えてみると、「髪型が変であるだけでなく、今着ている服とも全く合っていない」と言っているに等しい。 

しかし、文化が文化であるゆえんは、主客双方の関わりにある。主人がネタを投げ、客もそれをしっかり受け取らねばならず、そして暗黙のルールに従ってそれを投げ返す。局面がそれにより収まるばかりか、全く破綻が起きない。このようにして、文化ははじめて成立するのだ。先日、ある番組で二人の女性記者が京都文化について話しているのを聞いた。そのうちの一人が、自分が三人の男の子を育てて京都のマンションに暮らしていたときのことを話していた。三人の子どもは3~5歳の間で、やんちゃ盛りであり、母としては隣人に迷惑をかけていないかとても心配だった。あるとき、とうとうエレベーターの中で下に住むおばあさんに会った。 

おばあさん「お宅のお子さんたちは、朝から晩までほんま楽しそうで」 

お母さん「あら、おかげさまで。でも本当に……すぐに言ってくださって、助かります」 

このお母さんは、さすが関西出身の大手新聞記者だけあり、優れた修養を持ち、うまく話をついだばかりか、素晴らしい投げ返しを行い、双方が「京都文化」を見事に演じ切ることになった。もう一人の京都で生活した経験のない女性記者は深く感心して、「それって、まるで貴族がしていた言葉遊びみたいなものですね」と言ったのだ。 

 

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