日本の中国学者が見た中国の山水と庭園
劉檸=文
江戸幕府の鎖国政策のため、近世の日本人の中国の山河のイメージは多くが漢詩によるもので、幕末になって幕府が貿易船千歳丸を上海に派遣した頃から、渡航者が次第に増え、その状態は打破された。それ以降、戦前には、日本人の中国旅行記が数え切れないほど出版された。後藤朝太郎(1881〜1945年)の『中国の風景と庭園』(日本庭園協会、1928年)という本は、日本の一般読者を対象とした観光案内書ではあるが、その知識の詰め込みようと造詣の深さは、普通の旅行指南書とは比べようがない。
彼はその本の中で、中日の名園に共通するDNAを指摘しており、「北京の頤和園、日本の後楽園、水戸の千波湖を仔細に観察すると、その源がすべて西湖にあることが分かる」「西湖の文学的・歴史的味わいの根源の深さは、西湖が中国画の雰囲気を濃厚にもつことからも分かるように、多くが蘇東坡、白居易、林和靖などの名家に由来している」。
はっきり言ってしまえば、よく知られた唐詩・宋詞が中国庭園の「オリジナルテキスト」となっているのだ。今は亡き中国庭園学の大家である陳従周氏も、「中国庭園は名を文人園という。これは読書人気質を濃厚にもつ庭園芸術だ」「(中国庭園は)中国画や中国詩歌と極めて緊密に結び付いている」と言っている。
しかし、風景と庭園、文学と絵画の名作が互いに裏付け合う過程で、後藤はまた、筆による魅力がその風景自体の魅力をはるかにしのぐという現象を見て取っている。例えば、「曲水の宴」の舞台となった会稽山陰の蘭亭、「虎渓三笑」のエピソードの地である廬山西麓の虎渓橋は、実際の場所と絵の中の風景は天と地ほどの違いがある。彼は思わず「中国の風景の誇張宣伝という悪例をつくり上げたのも文人である」と不満をもらしている。
この現象が起きた理由として、二つの理由が考えられると筆者は思う。一つは西洋の実証主義的な学術訓練を受けた作者が、情緒的な芸術表現や文学的誇張を目にしたとき、テキストを客観化する傾向を逃れ得ず、そのために審美主体と客体との間に隔たりが生まれ、テキストへの共感と没入を難しくしたためだ。
もう一つは日本人の箱庭好きのためだ。私は後藤その人が箱庭を好んだと言っているわけではなく、実際にそのような証拠はない。しかしこうした好みは思考に影響を及ぼすもので、人はややもすれば箱庭から出発し、その比例で拡大し、実際の風景と一つ一つ対応させようとする。一部の日本人は、いまだこのような考え方を残しているのを見て取ることができる。このことは、実際に、後藤自身もある程度自覚していた。彼はこの本の序文の中で、さらに25年が過ぎ、日本の人口が1億程度になったとき、「その時に再び見れば、この箱庭はますます狭く思えることだろう。……われわれはこの積み重なった箱庭の一隅で自分自身の趣味を満足させるしか方法のない時代を迎えるだろう」と予言している。
後藤はこの本により、日本人の視線を中国に向けさせ、その後に「この日増しに狭くなっていく日本の現状と未来に直面し、さらに中国大陸の庭園と風景を見て、思考を深めて比較を試み」、それにより一種の「幅の広い」思考を得てほしいと願っていた。これもまた、作者の非凡な社会・人文への関心や、学術的な視野が通常の意味で一介の庭園学者の範ちゅうをはるかに超えていたことを表している。