芸術とは概念である
劉檸=文
私が『ひとりよがりのものさし』に出会ったのは、中国の雑誌『生活月刊』に掲載された、新潮社のベテラン編集者菅野康晴氏との「物と媒介」というテーマの対談においてだった。かなり前になるが、古道具屋を営む坂田和實氏が『芸術新潮』誌上に連載を行い、千葉県長南町にある彼の美術館「as it is」のコレクション展示を紹介した。連載終了後に単行本としてまとめたものが、芸術界のロングセラーとなった『ひとりよがりのものさし』で、この本の編集責任者こそ菅野氏であった。
「骨董界の最前線」の代表的人物として、坂田氏は長年、欧州各国や日本の田舎を歩き回り、骨董ともいえず、芸術品ともいえないさまざまな古道具を買い集め、自分の価値観に即して展示を行ってきた。現代美術家の村上隆氏はこれを高く評価し、彼を「もの派」の中に位置付け、その核心を「価値のない物を使って、物でない概念を展開する」ことにあると考え、ここから「いわゆる芸術とは概念であり、坂田氏の美もまた概念である」と結論付けたのである。
『生活月刊』誌の対談の中で、菅野氏は村上氏の見解を引き、「坂田氏はいかなる『創作』もしておらず、国内外の骨董市や骨董店から古いものを選別して買い取り、そして自分の店や美術館の中で陳列しているだけだが、彼は間違いなく芸術家である」と言い、私の意見を求めた。
私の答えはとても簡単で、「菅野氏は、美は『創造』ではなく『選択』によって生まれるとおっしゃられているが、私見では、いわゆる『選択』こそ創造であり、日本語の表現を借りるならば、一種の『発信』であると思う」というものだった。坂田氏は自らの独特な品位と視点に基づいて世界各地で骨董や古物を買い集め、そして自分の芸術空間で独特な叙事ロジックとリズムにより、「物」の美を際立たせ、ごみ同然の中古品を古美術品に変えたが、これは本質的には芸術に対する再定義である。彼の仕事は、買い取り、最構成して、陳列するだけでなく、明確なテーマ意識を持つ創作であり、伝統的な美術館における芸術家とキュレーターという二重の役割を果たすものともいえ、高度な独創性が必要とされ、職人の中の職人といえる。ある種の意味では、これは一種の観念に導かれた媒介芸術で、古美術品は単にその中の媒介にすぎず、これ以外にも、空間・照明・BGMなどの要素があり、互いに呼応し、補い合い、一つとして欠くことができない。こうした新しい媒介の独創性に支えられ、はじめて芸術品の美とその付加価値を最大限に引き出すことができるのだ。
日本では、「as it is」のような新媒介のイノベーション空間は目新しいものではなく、鶴川河畔にある江戸時代のかやぶき屋根の農家を改造して造られた白洲次郎・正子夫妻の旧邸宅である武相荘も、まさにこのような空間だ。小田原一帯にある、写真家杉本博司が設計した江之浦測候所も最新の例であり、完成したばかりにもかかわらず、すでに人気スポットとなっている。
残念なことに、この方面では、中国の発展は日本にはるかに後れを取っている。北京・上海・広州では、新型都市の創業スペースが次から次へと生まれているものの、独創性に欠け、洗練などは言わずもがなだ。私個人としては、日本の蔦屋書店、無印良品、江之浦測候所、そして坂田和實氏の個人美術館のような新しい独創的な空間が中国の都市に増えてくれることをとても期待している。これは21世紀の都市の持続可能な発展にも関わってくる戦略課題であり、軽視できないといっても差し支えあるまい。