中日平和友好条約締結(その1) 「調印は1秒間で済む」
張雲方=文・写真提供
1972年に中日国交正常化が実現した後、中日貿易協定や中日海運協定、中日航空協定などが相次いで締結され、中日関係は新たな発展期を迎えた。そして、中日平和友好条約の締結が両国間の協議日程に上がった。
田中角栄首相は、中日平和友好条約の締結に非常に前向きで、中国も大きな期待を寄せていた。しかし、田中首相は政治資金などの「金脈問題」で批判を受けて74年11月26日、首相辞任を表明。これが中日平和友好条約の締結に思わぬ波紋を投げ掛けることになった。
田中首相辞任から間もない12月1日、東京ではすでに2度の大雪が降り、寒風は例年よりも厳しかった。自民党の後継総裁選出を巡る争いは難航を極めたが、最終的に、いわゆる椎名裁定によって少数派閥のリーダーの三木武夫氏が総裁に指名された。そして、第7代自民党総裁に選出された三木氏は9日、第66代の内閣総理大臣に就任した。
徳島県出身の三木首相は就任早々、所信表明演説で「日中平和友好条約の締結を促進する」と自信満々に打ち出した。当時、条約締結は時間の問題だと思われていたが、自民党内の「親台湾派」の反発もあり、また三木首相自身も優柔不断で、適切なタイミングで果断な政治的決断を下さなかった。75年1月から5月にかけて、中国の陳楚駐日大使は、外務省の東郷文彦事務次官と12回にも及ぶ予備交渉を行ったが、「反覇権条項」について双方には大きな相違があり、交渉は難航した。
平和友好条約の早期締結の願いを込め、北海道日中友好協会ではギョーザ作りのイベントを開催。和気あいあいとギョーザを包む筆者(右から2人目)と女性メンバーたち(1977年)
私は三木首相に、「中日平和友好条約はいつ締結されるでしょうか」と質問したことがある。三木首相は、おなじみの独特のしゃべり方でこう答えた。「覇権の問題はね、ほお、言いにくいね」
その後、76年12月に福田赳夫内閣が発足し、平和友好条約の締結は転機を迎えた。初春の寒さがつのる77年1月、福田首相は訪中する当時の河野謙三参議院議員と竹入義勝公明党委員長に、「日中共同声明を忠実に守り、双方の一致した合意の下で、速やかに日中平和友好条約を締結したい」と、中国側に伝えるよう依頼した。同年3月、小川平四郎駐中国大使は命を受けて、福田首相からの以下の三つの意見を中国側に伝えた。①日中関係は順調に進んでおり、これは喜ばしい②日中共同声明を忠実に実行する③日中双方が満足するという状況の下で、速やかに友好条約の交渉を進める。
こうした動きの中、小坂善太郎元外相や茅誠司元東京大学総長をはじめとする友好人士により、同月11日、「日中平和友好条約推進委員会」が結成された。また日中友好議員連盟は同21日、総会を開き、議員496人が出席し日中平和友好条約の速やかな締結を政府に要望する決議を採択した。さらに6月6日には、社会党が衆議院に平和友好条約の締結を促進する決議案を提出した。
中国側では、早くも74年には、鄧小平副総理が中日平和友好条約の締結を担当する重要な役割を担うことになっていた。同年8月15日、病気で入院中の周恩来総理は鄧副総理に、竹入義勝委員長を団長とする公明党の第4次訪中団と会見し、中日平和友好条約について日本側と意見交換をするよう依頼した。鄧副総理は竹入委員長に対して、「閣下のもたらした中日平和友好条約に関する田中首相と大平蔵相の話を伺った。私たちは引き続き検討するつもりである。田中首相と大平蔵相が、共同声明に基づいて、中日両国の友好関係を発展させたいと何度も表明していることに、私たちは留意している。この点について、私たちは田中首相と大平蔵相と共に努力し、できるだけ速やかに中日平和友好条約を締結することを願っている。もちろん、交渉はいくつかの問題に直面しているが、双方がお互いに受け入れられやすい案を提出することを望んでいる。表現と方法の問題にすぎず、双方とも方法はあると信じている」と話した。また鄧副総理は、「私たちはできるだけ早く交渉することを望んでおり、解決できない問題、解決が困難な問題は棚上げしても構わない。これが条約締結を妨げることはない」と補足した。
中日平和友好条約の締結を記念して、中国で1978年10月22日に発行された記念切手
鄧副総理は中日平和友好条約に関して、具体的に以下の3点を提案し、田中首相に伝えてくれるよう竹入委員長に依頼した。①速やかに交渉する②中日両国の友好の願いと、共同声明調印後の両国関係の発展と情勢を反映する③解決できない問題、解決が困難な問題は棚上げにしてもよい。
具体的な手順としては、準備段階で交流や意思疎通を通じて、事前に相手の考えを理解し、交渉中に問題を解決する。また鄧副総理は、「中日間の問題の焦点は依然として台湾問題にある。私たちは平和的な方法によって台湾問題を解決することを望んでいるが、もしできなければどうするか。一部の日本人が台湾問題にしがみついているが、しがみつけるかね」と明確に指摘した。
その後、鄧氏は誤って批判されて失脚した。77年7月、鄧氏は復活し、9月と10月に日中友好議員連盟の新会長の浜野清吾氏、新自由クラブ代表の河野洋平氏、自民党の二階堂進氏とそれぞれ会見した。鄧氏は浜野氏が率いる訪中団と会見した際、「中日平和友好条約の締結に向けて500余名の議員が取り組んでくれたことに大変感謝している。500余名の議員の努力は、日本人民と中国人民の願望に合致し、中日両国の長期的利益にも合致すると信じている」と述べた。また、「福田首相のこれまでの立場を私たちは理解している。このことをやると言明した以上、この面で貢献することを期待する。もちろん、福田首相は多忙で、これはまた各方面にまたがる問題だ。しかし、この問題に限っては1秒間で済むことができる。1秒というのは、『調印』の2字だ」とも語った。
「1秒間で済む」という名言は、このようにして生まれた。