中日平和友好条約締結(その2) 鄧小平と反覇権条項
張雲方=文
中日平和友好条約の締結を巡り、両国は反覇権主義の問題で苦難の交渉を行った。これは、まさに好事魔多しだった。人間の歴史の発展を見ると、正念場やターニングポイントで予想外の波乱に見舞われることが多いが、これこそが歴史のハイライトであろう。
中日双方の意思疎通を経て1978年2月4日、中日平和友好条約交渉の非公式接触と協議が始まった。3月8日には、公明党が矢野絢也書記長を団長とする訪中団の派遣を決定した。出発前、矢野書記長は福田赳夫首相を訪問した。福田首相は園田直外相と安倍晋太郎官房長官を呼び、矢野氏と二度にわたり密談を行った。福田首相は、矢野氏に中国首脳に二つの伝言を託すことにした。一つ目は、「私は平和友好条約の締結には熱意を持って、速やかに進めるつもりである」。二つ目は、「いかなる国とも平和友好的であるという日本の立場を中国側に理解してもらいたい」。
鄧小平副総理は78年3月14日、人民大会堂の四川の間で矢野氏一行と会見した。四川の間は人民大会堂2階の西側にあり、鄧氏が四川省の広安出身だったことから、ここで日本の賓客と会うことにより、ホストとしてもてなす配慮を示した。
一同が着席すると、鄧氏がまず切り出した。「福田首相にお伝えください。もともと中日平和友好条約と反覇権条項は自然に解決できるものでした。遺憾なことですが、三木政権の間は、この追い風に乗ることができませんでした。三木首相は反覇権問題だけを取り上げ、問題にならないものを問題にしてしまい、本来論争をする必要のない枝葉末節の問題を取り上げ、解決しなければならない原則的な問題に変えてしまいました。本来、ソ連は物を言えなかったのに、三木首相のこうした態度を見て、逆に反覇権条項を利用して圧力をかけています。右翼も物を言えなかったのに、後には逆に彼らのカードになってしまいました。問題がここまで大きくなった以上、条約締結の際にははっきりさせなければなりません。現在、われわれが提起している反覇権条項は、中日共同声明の反覇権条項とほとんど変わりません。ただ、もともとこの一条の冒頭の表現は、中日両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない、でした。しかし現在は、締結国双方が中日平和友好関係を樹立・発展させることは、第三国に対するものではない、という表現に変更されており、後半部分は全くそのままですよ」
そこで矢野氏は、「では、 日本はいかなる国とも平和友好的であるという基本的な立場を中国に理解してほしいという福田首相の提案を中国側は理解した、と受け止めて良いですか」と鄧氏に尋ねた。
それに対し鄧氏はこう答えた。「いかなる国とも平和友好的であるというのは、われわれは理解できます。われわれもそうです。反覇権条項それ自体、他の国と平和友好的であってはならないという性格を持ったものではありません。問題は、もしソ連が再び横暴に振る舞い、覇権を行使した場合、それでもソ連と友好関係を結ぶことができるのか、ということです。もし中国が東南アジアやアジアで覇権を握ったら、その国々がわれわれと友好関係を築くと考えられるでしょうか。この問題は、はっきりさせなくてもいいのですよ」
それでも矢野氏は重ねて尋ねた。「外務省の一部では、この条約の前に『本条約は日中の平和友好的な発展を目的としたものであり、第三国に対するものではない』という文言を加えるよう強く望んでいます。閣下はどのようにお考えですか」。これに対し、鄧氏はこう答えた。「これはかえって問題を引き起こすでしょう。もともとソ連にこのカードはなく、三木首相が彼らに贈ったものです。この問題であなた方が弱腰を示せば示すほど、ソ連はますます付け入るスキがあると考えるでしょう。そう福田首相にお伝えください」
最後に矢野氏は、「中国側が提起した福田首相の早期の決断を希望しているという、この決断は、何を意味するのでしょうか」と尋ねた。鄧氏は笑みを浮かべ、「簡単です。共同声明の立場から後退せず、前進すべきだということです。前進できなくても、少なくとも共同声明から後退してはいけません」と述べ、さらにこう続けた。「もし、福田首相が共同声明の立場から前進できれば、栄えあるその名が中日友好関係史に書き込まれ、後世の日本人もその功績を書き記す――と私は思っています。これがわれわれの本当の見方です。福田首相はわれわれの旧友とは言えず、福田氏のこれまでの中国との関係は互いにはっきり分かっています。福田首相に会ったらお伝えください。われわれはこうしたことを気にしていません。われわれは、福田首相が田中元首相や大平元外相と同じように友人になることを心から願っていますと」
それから12日後、鄧氏は飛鳥田一雄委員長(当時)を団長とする日本社会党代表団と会見し、再び反覇権条項に関する中国側の立場を詳しく語った。
さらに鄧氏は4月16日、創価学会の池田大作会長と会見した際にも、再び覇権問題について説明した。鄧氏は、「覇権を振るうということは、他国を侵略し、奴隷化し、支配し、いじめることです。中国と日本の人民が覇権主義反対を受け入れることに問題があってはなりません。条約に覇権主義反対を盛り込むことは、二つの意味があることに他なりません。一つは、中日両国はアジア太平洋地域で覇を唱えない。われわれはこの一条で自身を制限したいと思っています。日本については、歴史的な経緯から、この一条を記すことが日本がアジア太平洋地域の国々との関係を改善する上で有益であり、必要です。二つ目は、いずれの国や国家集団もこの地域で覇権を求めることに反対します。現在の事実として、このように行っている超大国が実際にあるということです」
鄧氏は池田氏にズバリと述べた。「日本が条約に反覇権条項を盛り込むことに反対するのは、米ソ両大国からにらまれるのを恐れているからです。実は、反覇権条項は中米上海コミュニケに米国人が書き入れたものです。ですから、はっきり言えば日本はソ連ににらまれるのを恐れているのです。ソ連がアジア太平洋地域で覇権を求めるのを、中国と日本の人民が望み喜ぶでしょうか。この一条を書けば、少なくともあなた方の北方領土の解決にプラスになります」
この後、鄧氏は日本のマスコミ訪中団と会見した際、条約締結の問題は政治的な角度から処理すべきで、外交的なマジックや術策を弄すべきではないと指摘した。
鄧氏のたゆまぬ努力により、福田首相はついに交渉を決意。そして1978年7月21日、中日平和友好条約の正式交渉が始まった。
平和友好条約締結の取材で愛媛県日中友好協会を訪れ、同協会の石水伴清会長(中央奥)らと談笑する筆者(右端)(1978年9月、写真提供・張雲方)