鄧小平日本訪問(下) 先進経験を持ち帰る

2023-11-03 17:09:00

張雲方=文写真提供

小平副総理の日本訪問には二つの目的があった。一つは中日平和友好条約の批准書交換式に出席するため。もう一つは、日本の経済を視察し、中国の改革開放に生かせる経験を探ることだった。 

鄧氏が日本に滞在した期間は、1978年102229日。その内容は多岐にわたり、重要な案件が集中していた。中日平和友好条約批准書の交換式に出席し、日本の政治家と会談し、古くからの友人と会い、日本経済を視察した――当時の天皇皇后両陛下を表敬訪問し、福田赳夫首相や田中角栄元首相、保利茂衆議院議長、安井謙参議院議長、さらに古くからの友人の古井喜実氏、岡崎嘉平太氏、宇都宮徳馬氏らと会見。また新日本製鉄(現日本製鉄)君津工場や日産自動車座間工場、松下電器(現パナソニック)茨木工場などを見学した。さらに、滞在先の奈良ホテルで行われていた結婚披露宴にも興味を抱いて飛び入り参加、新郎新婦を祝福した。 

鄧氏にとっては、中国は改革開放を実施するか、経済発展は誰を参考にするか、というのが大きな問題だった。 

園田直外相や大平正芳自民党幹事長らの説明により、鄧氏は、第2次世界大戦後の日本の経済発展が、経済復興期基礎固め期高度成長期多様化期という特徴的な四つの段階を経てきたことを深く理解した。また鄧氏は、日本が経済が衰退し、人々が生活に苦しむ困窮状態から復興し、世界第2の経済大国に急成長した偉業を高く評価。「日本はたった7年で戦前の最高レベルにまで経済を回復させ、わずか23年で世界第2の経済大国の座にまで登りつめた。これはすごいことだ」と語った。 

鄧氏は、日本経済の急成長の経験を、「経済を中心に海外への門戸を開放し、チャンスを捉え、重点的に行った」と総括、評価した。中国が改革開放後に経済を中心とする戦略方針を打ち出したことは、鄧氏の日本に対する認識と無関係ではなかったと私は思う。 

特に記憶に残っているのは、大平氏が鄧氏と会見したとき、中国の経済建設に日本の政府借款の利用を提案したことだ。後に谷牧副総理が東京に円借款の協議に赴いたが、まさにこのときの会談が縁となった。大平首相は79年、中国を訪問し、日本政府からの「プレゼント」として円借款を正式にスタートさせた。この年、円借款は一時的に中国の基本建設投資の12%、外国政府の対中融資の60%以上を占めるほどで、中国の経済建設の大きな推進役となった。 

鄧氏とわれわれ取材陣一行は、ホーバークラフトに乗って東京湾を横断し、千葉県の新日鉄君津製鉄所に移動した。製鉄所2階の見学者通路に立つと、熱延鋼板がひっきりなしに引き伸ばされていく壮観な光景に胸が躍った。鄧氏は感無量の様子で、「鉄鋼は経済発展の重要な柱だ。これからわれわれもこうした先進的な製鉄所を持つ必要がある」と話した。また鄧氏は冗談交じりに新日鉄の稲山嘉寛会長にこう言った。「あなた方がわれわれの宝山製鉄所の建設を手伝う際は、必ず最新技術をお願いする。もし生徒がうまく行かなかったら、あなた方教師の責任ですよ」 

工場内に人影がまばらなのに気付いた鄧氏は、「今日、工場は休みなのか」と聞いた。すると案内役の斎藤英四郎社長は、「みんな出勤していますが、工場はコンピューター管理を導入しているので、現場に人を配置する必要がありません」と答えたのだった。 

日産自動車の座間工場で、鄧氏はロボットハンドの整然とした作業ぶりに大変興味を持ち、ユーモアたっぷりに「ロボットは金にうるさくないし、ストライキも心配しなくてよい」と話した。また日産自動車の人たちにも「日産車は素晴らしい」と声を掛けた。日産の社長はこれを大変喜び、鄧氏に同社最高クラス「プレジデント」のセダンを1台贈った。 

鄧氏は、松下電器の茨木工場を非常に詳しく視察し、電気製品の生産状況について質問を重ねた。近代化は電子工業なしには不可能と話していた鄧氏は、松下が率先して中国での工場建設に投資するよう望んだ。すると、日本で「経営の神様」と呼ばれる松下幸之助氏は、「閣下どうかご安心ください。中国との協力は、私の願いであり、松下電器の願いでもあります」と約束した。その後、松下は北京を建設地に選び、カラーブラウン管の生産基地を建設した。これは、あのときの鄧氏の呼び掛けに応じたものだった。 

鄧氏が外国の友人に揮毫を贈ることは多くない。だが訪日中、計6回揮毫を贈った。日産自動車での揮毫は、「向偉大、勤労、勇敢、智慧的日本人民学習、致敬」(偉大で勤勉、勇敢、聡明な日本の人々に学び、敬意を表す)だった。また新日鉄君津製鉄所では、「中日友好合作的道路越走越寛広,我們共同努力!」(中日友好協力の道は歩くほどに広がって行く。われわれは共に努力しよう)と揮毫し、松下電器は「中日友好,前程似錦」(前途洋々)だった。 

ここまで日本訪問の日程は半分にも達していなかったが、鄧氏はすでに今回の成果にとても満足していた。そして、中国の改革開放の考え方は正しいと確信を強めた。同時に、世界の発展の新たな情勢に直面して、別の切迫感もあった。東京から関西に疾走する新幹線の中で、日本の記者が鄧氏に感想を聞くと、「まるで誰かに後ろから追い立てられているようだ。とにかく速い。中国にはまさにこの速さが必要だ」と即座に答えた。 

このニュースには一つのエピソードがある。外務省では、記者への事前ブリーフィングで、中国の訪日団に休んでもらうために、大阪へ向かう新幹線で代表団の車両に行くことを禁じると伝えた。ところが毎日新聞の記者は入社間もなく、ブリーフィングにも出ていなかった。だから、深く考えずに鄧氏が乗る車両に入り込み、率直な感想を聞き、それが広く伝わる形になった。 

鄧氏は1025日、都内で記者会見を行い、日本訪問を高く評価した。鄧氏は率直かつユーモアを交えて語った。「今回日本に来たのは、教えを請うためだ」「日本は昔、蓬莱(仙人の住むところ)と呼ばれ、不老不死の薬があるとされた。今回の訪問は、これを手に入れるためだった。不老不死の薬はなかったかもしれないが、日本の経済発展の先進的な経験を持ち帰りたい」 

日本政府は不老不死の薬と呼ばれる薬草「天台烏薬」を鄧氏に贈った(今年11月号と12月号の本欄の「私と徐福」の記事で、中日韓の徐福にまつわる話を取り上げる)。 

74歳の鄧氏は8日間にわたる日本訪問の活動を終え、1029日午後、帰国の途に着いた。「私は喜びの気持ちとともに日本にやって来た。今また喜びの気持ちを持って北京に戻る」と話した鄧氏は、また深く感じ入ったように「日本を見て、近代化とは何かがはっきり分かった」ときっぱり言い切った。 

新幹線で移動中の鄧小平氏(右から2人目)

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