私と徐福(下)
張雲方=文・写真提供
2007年4月、当時の温家宝総理は韓国を公式訪問した。訪問期間中、李世基・韓国徐福会会長の求めに応じ、温総理が済州島の徐福公園の園名を揮毫したことを地元紙と李氏から知った。このビッグニュースに私は子どものように大喜びし、歓声を上げた。
05年に定年退職して間もなく、中国徐福会の劉智剛第2代会長から突然、第3代会長への就任を要請された。これには正直ビックリした。初代の李連慶会長は、私が『人民日報』の東京特派員だったときの駐日本中国大使館の文化参事官で、私たち記者とは気心の知れた友人だった。実は1993年の中国徐福会の発足時に、李会長と肖向前元駐日首席代表から声を掛けられ、名ばかりの副会長に就いた経緯があった。
だが今回は、会長のバトンタッチを打診されても私はなかなか首を縦に振らなかった。なぜなら、私の関心は会長になることではなく、もっぱら徐福研究にあったからだ。とはいうものの、李会長は私の尊敬する先輩であり、東京での任期を共にした古くからの友人でもあったので、その頼みをむげに断るわけにはいかなかった。こうして私と徐福の「距離感ゼロ」の付き合いが始まった。
羽田元首相(左)と筆者
中国徐福会の会長に就任した後、前会長の意志を受け継ぎ、私は徐福文化の概念を打ち出した。これは、単なる徐福研究をより幅広い徐福文化研究へと間口を広げ、歴史だけでなく、徐福現象が長く衰えない理由や、徐福の精神と理念を訪ねるのが重要だと考えたからだ。
2000年余り前に生きた歴史上の人物が、今も中日韓のみならず東アジア諸国で受け入れられ慕われ、愛敬と顕彰を受けている。これは、徐福が文化の交流、経済の発展、思想の融合と平和、健康と長寿を体現しているからだ。また、これこそが人類の追求する永遠のテーマであり不朽の真理だと考える。徐福文化のバイタリティーはこれにかかっている。私たちが継承しようとするものも、そのような精神と理念である。
さらに徐福文化の研究は、地方の文化振興・経済のテイクオフに役立ち、国家の調和ある発展に役立ち、中日韓3カ国の友好に役立つ「三つの貢献」構想を提起する。
2011年に、国務委員で中日友好協会の会長を務める宋健氏が代表団を率いて訪日した。その出発に先立ち、宋氏の秘書から私に、徐福に関する学術論文を提供してほしいという電話があった。
宋氏は、「源を遡り遠きを眺む」という中日友好集会のあいさつで、一つの章全てを使って中日交流における徐福の意義を語った。これは、私が知る限り中日友好の民間交流を担当するリーダーが初めて徐福について詳述した例だと思う。宋氏の文章を読んだとき、涙があふれ出るのを禁じ得なかった。
この年、私も中国徐福会の代表団を率いて日本と韓国を訪問した。その訪問期間中、中日韓の3国による徐福に関する文化遺跡と伝説の世界文化遺産への登録を訴えた。これに合わせ、中国徐福会は徐福の記念切手の発行と徐福文化基金の設立構想を提案した。また近年、さらなる徐福文化の研究奨励を目的に、中国徐福会では徐福文化の貢献賞と学術賞を設けて授与してきた。さらに中日韓が共同で徐福を記念する「徐福記念日」を設けようと構想している。
羽田孜元首相(1935~2017年)は徐福の研究に大変熱心だった。07年、羽田氏に江蘇省の連雲港市で行われた第10回中国徐福祭りへの出席をお願いした。そこで羽田氏が語った歴史の話に、中日韓3国の徐福文化研究者たち一同は粛然とした気持ちになった。その話とはこうだ。
羽田家の家系図によると、先祖は古代日本の有力者・秦河勝だ。秦河勝は、6世紀末から7世紀初めの古墳時代から飛鳥時代にかけ日本の歴史に実在した、渡来系の帰化人を先祖に持つ人物である。聖徳太子から高く評価、重用された大商人でもあった。歴史書によると603年(推古天皇11年)、聖徳太子から一体の仏像を賜った秦河勝は、これを祭るために現在の京都に蜂岡寺(後の広隆寺)を建立したという。昔、蜂岡寺は秦公寺とも呼ばれていた。また、この地域は中国などからの渡来人氏族の秦氏が多く住んでいたことから、後に太秦とも呼ばれるようになった。この秦河勝夫婦の彫像は今も広隆寺の近くにある。
大阪・八尾市の大聖将軍寺も秦(羽田)と関係があり、同寺には聖徳太子を真ん中に左右に四天王を配置した縁起絵が大切に収蔵されており、その中の一人が秦河勝である。ある戦いの中で敗北した秦河勝は自害した。その後、「秦」から音が近い「羽田」姓に変わった。
秦河勝は、中国から日本に移り住んだ「渡来人」に違いない。しかし、祖先が徐福が東(日本)へ渡った際の一員であるかどうかは分からない。羽田一族の家系図は秦河勝までさかのぼれるが、それ以前は何の書き記しもない。それでも、もしかしたら徐福の一行として日本にやって来たのかもしれないと想像している。
私の曽祖父・羽田三郎は長野県和田村(現・長和町)の村長で、祖父・貞義は福島県師範学校(現在の福島大学教育学部)などの校長を務めた。父・武嗣郎は東北帝国大学を出て、34歳で衆議院議員選挙に当選した。今でも長野の実家には「秦陽館」の額が掛かっている。「秦」と「羽田」の一族は、どちらも「タカ(鷹)の羽根」を交差させた家紋だ。想像すると、私のご先祖さまは技術者で、もしかしたら徐福の一行として日本にやって来たかもしれない__。
習近平主席は2014年に韓国を訪問し、ソウル大学で講演、「中韓友好は長い歴史を持ち、徐福は済州島に来ていました」と述べた。これは鄧氏に続き、中国のトップリーダーによる徐福についての言及だった。習主席の話は中日韓の徐福文化の関係者を大いに鼓舞した。
徐福は人間であって神様ではない。その研究と顕彰は徐福を神秘化、神格化するためではなく、徐福の本当の姿を取り戻し、より近づくために他ならない。唐の時代の書物にこんな言葉がある。「銅を鏡とすれば、衣冠を正すことができる。古を鏡とすれば、興亡を知ることができる。人を鏡とすれば、得失を明らかにすることができる」。私たちの徐福研究の目的もまさにそこにある。
中国の徐福文化研究、また日本・韓国の徐福文化研究は今花盛りで、素晴らしい展望を見せている。私は生涯、徐福文化の研究と共にあるつもりだ。