改革開放の道探った「先兵」
張雲方=文・写真提供
皆様、明けましておめでとうございます。
はじめに、引き続きこのような読者の皆様との交流の場を与えてくれた『人民中国』編集部のご厚情に感謝するとともに、当連載への読者のご愛顧にも感謝したい。この連載は、中国の改革開放の熱気あふれる時代と中日交流の歴史を語る私への大きな励ましとなった。新たなこの1年は、私が目の当たりにした数々の場面――鄧小平の訪日後に中国政府が派遣した初の訪日視察団のことや、中国政府の経済顧問として招かれた日本の友人のこと、大平正芳首相の訪中、鄧穎超・全国人民代表大会常務委員会副委員長や廖承志同副委員長、谷牧副総理の各訪日、中日経済知識交流会や教科書問題のこと、中曽根康弘首相の訪中、さらに中日青年の大交流と鄧小平が政界を引退する前に会った最後の日本の友人のことなど、その歴史の一端を語っていきたい。
鄧小平は1978年10月29日、日本訪問を終え北京に戻った。その2日後の10月31日、中国政府の経済視察団が東京に到着した。
当時の符浩・駐日本中国大使は、呉曙東・経済参事官と私にこの代表団の世話を命じた。それからひと月余り、私と代表団は日本の各界の代表的な企業と経済団体を訪ね歩いた。
中国国家経済委員会から派遣されたこの訪日代表団は、改革開放の道の「探索先兵」あるいは「経験吸収団」と呼ばれ、20人のメンバーによって構成されていた。団長は同委員会主任の袁宝華氏で、党中央政策研究室の責任者・鄧力群氏が顧問、副団長は葉林・北京市副市長(北京市党委員会書記、「文化大革命」以前は国家経済委員会副主任)、国家経済委員会の徐良図、劉昆の両副主任などだった。またメンバーには、劉少奇・元国家主席の秘書だった宋季文氏(後の軽工業部部長)や政治問題の高崗事件で不当な扱いを受けた馬洪氏(後の中国社会科学院院長、国務院副秘書長、国務院発展研究センター主任)が入るなど多士済々だった。
この代表団は、二つのルートで党・政府中央と直接つながっていた。一つは鄧力群氏で、鄧小平と直接連絡を取っていた。もう一つは袁宝華氏で、李先念、谷牧の両国務院副総理と直接連絡を取っていた。
鄧力群氏は勉強家として知られ、どんな問題でも把握したがった。日本滞在中、私が鄧氏から一番多く尋ねられたのは、マクロ的な問題――日本の戦後の発展をどう見るか。それは教育の効果が大きかったのか、それとも米国の(朝鮮戦争での特需も含め)援助の影響が大きいのか。また技術的な要素が大きいか、それとも政策的な面か。日本の経済システムと他の西側の国々との違いはどこにあるのか、といった点だった。鄧氏は、政策的な要素を軽視してはならず、第2次世界大戦後、日本は所得倍増計画を行い、(急速な復興という)奇跡の原動力を創り出したと考えていた。また、戦後の日本の「マル経」(マルクス経済学)学派が主導的な立場を占めていたことを特に重視していた。
中国政府の経済視察団は日本滞在中、日本の有名企業や著名な経済学者を訪問した。また、戦後日本の経済政策の策定に重要な役割を果たした人物たちとも会い、さまざまな話を聞いた。これらの人々のうち、都留重人氏や館龍一郎氏、下村治氏などの経済学者は、理論面から戦後日本の経済発展のポイントを解説してくれた。また、当時の国土庁事務次官の下河辺淳氏や経済企画事務次官の宮崎勇氏(村山改造内閣時代の経済企画庁長官)などの官庁エコノミストからは、実務面での戦後日本の経済運営と産業政策を説明してもらった。
代表団は、日本では現地調査と講義を合わせた学習方法を取った。重要で代表的な企業には、少なくとも3日ほど滞在し、経営陣による講義を聞き、生産工程を見学し、企業管理の経験を学んだ。その一生懸命さは、今の人にはとうてい理解できないだろう。
日本には昼寝の習慣がなく、簡単な昼食の後にはさっさと仕事を再開する。しかし、代表団のメンバーは毎晩遅くまで資料を整理しており、また多くの団員が「文革」時代の混乱から解放されたり、再教育施設から戻って間もなかったりという状況だったので、昼寝がないのは体にこたえた。こんなエピソードがある。ある日、団員の宋季文氏がトイレに行ったまま帰って来ない。何かあったのかと別の団員が見に行ったところ、中からいびき声が聞こえて来る。そこでドアを開けてみたところ、宋氏が便座に座ったまま眠りこけていた――。
戦後の日本経済の運営で、代表団は際立つ二つの点を重視していた。それは、誘導的な経済政策と企業のチームワークだ。戦後間もなく日本は焦土と化し、生活は困窮を極め、復興が急務となっていた。こうした状況下、日本は経済重視政策を取り、資金と物資を集中し、国民経済における基幹産業に優遇政策を実施し、目覚ましい効果を上げた。また終身雇用や年功序列、産業別労働組合は、企業のチームワークづくりの原動力や決め手となった。
産業構造で見ると、日本はまず軽工業から始め、繊維産業に対して国の優遇政策を実施した。46年末に繊維産業の生産額が全製造業中に占める割合は23・9%で、50年には繊維製品の輸出額は全輸出額の半分を占めた。日本経済の復興期は53年に終わり、産業構造は新たな調整を始め、軽工業から重化学工業へと戦略を転換した。重化学工業の産業構造は58年までに基本的に完成し、国内における洗濯機や冷蔵庫、テレビ、自動車、造船、鉄鋼の製造面での活況ぶりは際立っていた。
日本は60年以降、高度経済成長期に入り、造船や鉄鋼、テレビ製造などの分野で世界市場を左右し始めた。71年からは経済多様化の時代が始まり、日本は「重厚長大」の重化学工業を偏重した構造から「軽薄短小」の電子産業重視へと再び産業構造を転換した。日本経済の発展の道筋は「重点突破」が明確で、「貿易立国」という戦略的方針が企業の配置や運営、戦略的転換を主導していた。
「探索先兵」は78年12月5日、無事に日本での視察を終え帰国した。団員たちは、中国の改革開放と企業改革に大きな影響を与えた政策提言の報告書を速やかにまとめた。報告書には、「日本は1955年から76年に、国民総生産(GDP)が4・8倍増え、年平均8・7%の成長率を達成した。また工業生産額は8・4倍増え、年平均の成長率は11・3%だった」と書き込まれた。
また、中国は日本から学ばなければならず、「思想的な大解放を決心し(中略)硬直した制度を排除し、タブーを打ち破り(中略)、これまでの行政重視の組織運営を、経済性を優先した組織運営へと断固かつ徹底的に改めなければならない」とした。そして、「日本は、先進的な生産技術と管理方法を高度経済成長の『車の両輪』と称し、どちらも欠かさなかった。(中略)日本は管理と科学、技術を現代文明の『三本足』としている。(中略)この経験はわれわれが学ぶに値する」と結論付けた。
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