大平首相と対中円借款
張雲方=文・写真提供
大平正芳首相(1910~80年)は1979年12月5日、中国を公式訪問した。空港で見送る私に対し、大平首相は突然、「中国では何がおいしいですか」と聞いてきた。私は即座に「ギョーザです」と答えた。中国滞在中、大平氏は忙しい日程の合間を縫い、随行の数人を伴って本当に水ギョーザを食べに行ったという。
その店は北京の、王府井百貨店ビルのすぐ南側にあるごく普通のギョーザ店だった。2階建ての古い建物だったが、今はもうない。代わりに豪華な「王府セントラル」というショッピングモールが建っている。東京に戻った大平首相は、集まった記者たちに「北京の水ギョーザはおいしかったよ」と話した。
日本の参議院選挙が77年6月17日に公示、約1カ月にわたる選挙戦が始まった。私は公示日の翌々日、朝から晩まで車を運転して大平氏が乗る選挙カーを追い掛け、演説を聞いた。1台の選挙カー(ワンボックスタイプ)には、政治家以外にいわゆる選挙運動員が6、7人乗っていた。
その日の昼、われわれは埼玉県大宮市(現さいたま市)までやって来た。疲れ切った運動員たちは一軒のそば屋に入った。大平氏の隣のテーブルに座った私は1杯400円の五目そばを頼み、大平氏は350円のそうめんを注文した。
席に着くと私は大平氏に、72年の中日国交正常化の頃は毎日ラジオで田中角栄首相と大平氏の名前を聞いたと話した。すると大平氏は、ラジオと聞くと細い目をさらに細めながら、「ラジオか、ラジオか」と繰り返して笑った。その日の夕方、私は新宿で大平氏らと別れたが、大平氏の選挙活動に密着取材し、至る所を走り回った中国の記者は、私だけだ。翌年の暮れ、大平氏はついに総理の座を射止める。
79年の大平首相の訪中から、中国に向けた日本の低利子による長期円借款の供与が始まった。同年には500億円が供与され、河北省・秦皇島港の石炭埠頭整備や山東省・石臼所港湾の建設、北京–秦皇島間の京秦鉄道の整備、山東省の済寧–日照を結ぶ兖石鉄道の建設、衡陽(湖南省)–広州(広東省)を結ぶ衡広鉄道の大瑶山トンネル建設、湖南省・五強渓水力発電所の建設など8件のプロジェクトで使われた。
その後、大平首相の支持の下、谷牧副総理が日本側と協議し、第2次円借款に5400億円、第3次に8100億円、第4次に9700億円が供与された。日本の円借款は、中国の改革開放の大きな資金源で、当初、中国のインフラ建設の約12%を占め、最大時には世界各国の対中借款の70%を占めた。日本政府の低利子円借款は、中国の改革開放初期の資金不足という「焦眉の急」を解決した。
日本政府が79年から実施した円借款は、2022年3月に全ての事業が終了した。この42年間、中国には総額約3兆6600億円の援助が供与された。そのうち、北京の中日友好病院や中日青少年交流センター、中日友好環境保全センター、北京の地下鉄1号線、上海浦東国際空港、大同(山西省)–秦皇島(河北省)を結ぶ大秦鉄道、武漢長江第2橋などの建設・整備プロジェクトは無償資金協力によるものだった。
大平首相は対中低利子円借款の創始者だった。鄧小平副総理は、1979年12月6日に訪中した大平首相と会談した。このときの会見で、将来、中国経済を4倍にする計画が初めて明らかにされた。鄧氏は84年、訪中した中曽根康弘首相に対し、「経済4倍増の話となると、大平さんを思い出します。今世紀内において4倍にすると私が述べたのは、大平さんの示唆を受けてのことでした」と語った。
鄧氏は大平首相に対して深い印象を抱いていた。鄧氏が78年に日本を訪問した際、東京に到着した翌日にわざわざ大平氏の元を訪れていた。そのときの会談で、大平氏は大所高所に立ち、戦後日本の経済の発展状況について鄧氏に語った。
大平氏は、戦後の日本経済を、戦後の復興期と土台を築いた時期、高度成長期と多様化の時期という四つの時期に分けて捉えていた。また、主に傾斜生産方式という経済成長モデルについて語った。大平氏は、経済が立ち遅れているときは、機会を捉え、重点を突破し、限られた資金と物を鍵となる分野に用い、主要産業を集中的に支援する戦略を取るべきだと述べた。
大平氏はまた日本の所得倍増計画を紹介し、特に中国は、日本政府が発展途上国向けに供与する低利子の借款を含めた政府開発援助(ODA)の利用を考えるべきだと言及した。79年に谷牧副総理が日本を訪れ、円借款を協議したそもそものきっかけは、このときの会談だった。
鄧氏は79年1月、初の訪米を果たす。米国へ向かう飛行機の中で奇想的な考えを思いつき、大平氏に電報を打って数日後の東京での会談を申し入れた。大平首相はこれを快諾。大平首相は鄧氏と会ったとき、中国の開放改革と経済建設を全面的に支持すると再び強調した。
翌80年5月27日、華国鋒党主席と谷牧副総理が日本を訪問。大平首相は華主席と長時間の会談を行い、中日双方は「中日科学技術協力協定」を締結し、「中日閣僚会議設置の協議」で一致した。中日間で政府のメンバーによる会議が設けられるというのは、両国の交流史に名を残す初の試みと言える。大平首相は、北京の病院の無償建設や中国留学生の受け入れ拡大など、中日両国の長い交流に関係するビジョンについても前向きな姿勢を示した。
大平首相は中国に対し深い感情を抱いていた。79年、日本と深い文化的なつながりを持つ中国の古都・西安を訪れた際、大平首相は「温古知新」の四文字を揮毫した。また中国を離れる前夜のカクテルパーティーでは、唐代の詩人・司空曙の『別盧秦卿』の詩を引用し、「知有前期在、難分此夜中」(また会う機会があると分かっていても、今晩別れるのはつらい)と、その胸の内を表した。
大平首相の秘書官を務めた佐藤嘉恭氏(元駐中国日本大使)の同行を得て2002年、私は首相の古里・香川県を再訪した。同県は、空海(弘法大師)や卓球の世界選手権で2度の女子シングルス優勝などを果たした松崎(旧姓・栗本)キミ代さんの出身地としても知られる。幸い大平首相の妹・富江さんが健在で話す機会があり、兄・正芳氏が幼い頃、特産の麦わら真田の帽子を編んでいたことなど、多くの思い出話をうかがうことができた。過ぎ去った出来事がありありと目に浮かんだが、すでに泉下の客となった……。
私は大平首相の墓前に花束を手向け、中日友好の先哲の偉業をしのび、安らかな眠りを祈った。
張雲方(Zhang Yunfang)
1943年生まれ。国務院発展研究センター研究員。人民日報国際部編集者・記者、人民日報東京特派員(1975〜80年)、国務院発展研究センター弁公庁副主任・外事局責任者、国務院中日経済知識交流会事務長、中国徐福会会長、中華全国日本経済学会副会長、中国中日関係史学会副会長、中国徐福国際交流協会顧問、中日陝西協力会顧問などを歴任。