良き友人—中曽根康弘氏
張雲方=文・写真提供
東京駐在の記者として連続3期6年勤めた私は、1980年初め、北京の本社に帰任することになった。その少し前の79年11月、日本カルチャーセンターで働く元毎日新聞社記者の牛山込一氏から電話があり、「帰国前に中曽根康弘氏と会ってみないか」と言われた。
中曽根氏は日本の大政治家だ。中曽根氏は戦後、当時の内務省を退官し、47年(昭和22)に行われた戦後第1回の衆議院選挙に立候補。白塗りの自転車に乗って選挙区内を駆け回り遊説、初当選を果たした。また中曽根氏は、当時日本に駐留していた連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官を批判。マッカーサーに対し建白書を提出したこともある。政党内での直接的な言動から「気骨のある青年将校」とも評された。
その後、中曽根氏は自由民主党の副幹事長(55年)を皮切りに、同党副総務会長(59年)、科学技術庁長官(59~60年)などを経て、66年に自らの政治派閥「新政同志会」(中曽根派)を結成。その後も運輸大臣(67~68年)、防衛庁長官(70~71年)、自民党総務会長(71~72年)を歴任。
72年の自民党総裁選では、状況を眺めながら、福田赳夫氏と総裁の座を争っていた田中角栄氏を支持。田中の総裁選勝利に大きな役割を果たした。その時も含め、変わり身の早さなどから「風見鶏」というあだ名も付けられていた。78年には党の総務会長を辞して、総裁選に初出馬する(予備選挙で3位)。
私は中曽根氏の講演を聴いたことがある。その論理は明快で、話し方は生き生きとし、深い道理に満ちていた。中曽根氏はこう話した。「私たちは白と黒を対立させて物事を見ることに慣れ、黒でもなく白でもない灰色を軽んじている。実際は、灰色こそ私たちは注目しなければならない。老子が言う『道の道とすべきは常の道にあらず』(人の言う道は天の道ではない、この世に不変のものはない)とは、こういう意味だ」
私は77年、中曽根氏の古里の群馬県を取材した。同県は養蚕業が盛んで、コンニャクイモの特産地として知られる。しっかりとした工業基盤もある。中曽根氏は同県の高崎市出身で、福田赳夫首相も同市出身だ。二人は選挙区も同じライバルで、衆議院選挙の度に「上州戦争」とも呼ばれる激しいトップ戦いを繰り広げた。
新潟県出身で、学歴がそれほど高くない田中角栄氏と違い、中曽根氏、福田氏とも裕福な家庭の出身で、東京帝国大学に進学した俊才だった。地元で中曽根氏の知名度は高く、女性たちにとっては一種のアイドルだった。
そのような日本政界の重鎮に会えるのは、願ってもないことだった。
11月26日、月曜日の午前10時。私は車を運転し、日本政治の中心・永田町と並ぶ平河町の、中曽根氏の個人事務所が入る砂防会館に時間通りに到着した。中曽根氏はすでに執務室で待っていた。中曽根氏と差しでの懇談は、これが初めてだった。事務所は簡素で、壁にはそう大きくはない油絵が掛かり、細長い机の上の台座には装飾然とした太刀が置かれていた。
中曽根氏は背が高く、身長177㌢の私より大きかった。とても親しみやすく、「日本に来て5年ですか。慣れましたか」と聞いてきた。その後、「自分の古里より快適なところなどありませんよ」と言い、「あなたは韓国で生まれたそうですね。国際人だから、当然どこに行っても不案内と感じることはないでしょう」と続けた。中曽根氏はこれほど私を知っているのかとびっくりした。一人の中国人記者と会うために、十分に準備をしていたのだ。もしかしたら、牛山氏が情報を伝えたのかもしれない。
中曽根氏は話題を変え、氏と新中国の関係について語り始めた。「私は、高良とみ、宮腰喜助、帆足計の国会議員3人が52年に新中国に行った後、最初に訪中した国会議員の一人です。3人と違うのは、3人が中国の国際貿易促進委員会の招きで訪中したのに対し、私は54年のストックホルム世界平和評議会(ヘルシンキ会議とも呼ばれる)に参加してから中国に回り、新疆(新疆ウイグル自治区)から入国しました」
新疆について話す中曽根氏は、中国を訪れた当時に戻ったかのように生き生きとした表情で、「新疆は大変美しいですね。道の両側にスイカが並べられ、フルーツの香りにあふれていました」と話した。私が「それはハミウリでしょう」と口をはさむと、「そうそう。ハミウリです」と言った。
また中曽根氏は次のように語った。「張さん、私は松村謙三(日中関係正常化に尽くした政治家)の弟子です。松村さんが70年に訪中したとき私も同行しました。また、73年に田中内閣の通産大臣として訪中した際は周恩来総理が3回連続して私と会ってくれ、日本の経済・政治状況や世界情勢について意見を聞かれました。特に『日中関係の先行きについての見方』を聞かれました。最後の会談では、周総理は人民大会堂の下まで私を見送ってくれ、肩にコートを掛けてくれました」
私は中曽根氏にこう語った。「任期満了で間もなく帰国するに当たり、閣下と懇談する機会を得られて大変光栄です。日本は深い印象を残してくれました。春のサクラや秋の紅葉、真っ白な富士山が好きですが、5年来付き合った日本の友人たちをもっと名残惜しく感じます。私は、中日両国民の友好のために、これからも一生力を尽くしたいと思います」
すると中曽根氏は、「張さんは政治的過ぎますね。あなたは私が単独で会見した初めての中国人記者です。私たちは『君子の交わり』で、これからは良き友人、古い友人になりましょう。くれぐれも遠慮しないでください」と話し大笑いした。
さらに中曽根氏は、「私は周恩来総理を深くしのび、訪中した頃を懐かしく思っています。もし機会があれば、また中国を訪れたいですね。中国文化に憧れています」と話した。
懇談は2時間余りに及んだ。正午近くになり、中曽根氏と別れ、砂防会館を後にした。「また中国を訪れたい」「これからは良き友人、古い友人だ」という中曽根氏の言葉は、生涯の記憶として残っている。
宿舎に戻ると、すぐに内容を中国大使館の陳抗参事官に報告した。陳参事官は「これは重要なので、すぐに国内に報告しよう」と答えた。もともとは1年前、中曽根氏から中国大使館に訪中の申請が出されていたが、大使館では、河本敏夫氏が日本の首相になる可能性が高いと判断し、河本氏を中国訪問に招待していた。一般的に政治家は、申請がいったん断られると、それ以上は求めてこないものだ。今回、私と直接会って歓談した機会を利用し、中曽根氏は遠回しに再度訪中する意向を表明したのだ。
こうした状況を国内に報告すると、すぐに返事があった。華国鋒党主席から、80年5月1日のメーデーの祝日期間中、中曽根氏が訪中するよう招請すべしとの指示だった。中曽根氏の訪中招請の件が確定すると、中国国内で休暇中だった符浩大使は休暇を切り上げ、急いで東京に戻ってきた。符大使は私に、「君の任期は間もなく終わるが、中曽根氏の訪中招待の件は大使館が全て引き受けた。君は安心して帰国の準備をしてくれたまえ」とねぎらってくれた。
私が帰国後の80年3月、中曽根氏は牛山氏を北京の私のもとに派遣し、訪中についてのアドバイスを求めてきた。私は牛山氏と北京飯店(ホテル)で再び中曽根氏の訪中スケジュールを検討した。
同年5月のゴールデンウイーク、中曽根氏は念願の中国訪問を果たした。私と中曽根氏の友情の縁はここから始まった。
張雲方
1943年生まれ。国務院発展研究センター研究員。人民日報国際部編集者・記者、人民日報東京特派員(1975〜80年)、国務院発展研究センター弁公庁副主任・外事局責任者、国務院中日経済知識交流会事務長、中国徐福会会長、中華全国日本経済学会副会長、中国中日関係史学会副会長、中国徐福国際交流協会顧問、中日陝西協力会顧問などを歴任。