中日経済知識交流会(上) 谷牧副総理のリードで発足

2024-07-22 14:25:00

張雲方=文写真提供 

本の著名なエコノミスト大来佐武郎(おおきたさぶろう)氏(1914~93年)が1979年11月、 日本の外務大臣に就任した。当時の経団連の稲山嘉寛会長は、中国国務院の谷牧副総理に書簡を送り、こう伝えた。「ご存じの通り、私が(顧問に)推薦した大来氏は外務大臣に就任しました。そのため、氏は以前のように民間の立場から中国に協力することはできなくなります。そこで、(元国土事務次官で開発の専門家の)下河辺淳氏を推薦します」 

同年12月、大平正芳首相と大来外相が中国を訪問した際、鄧小平副総理は大平首相に、「大来さんに私たちの経済顧問を引き続き担当してもらえるよう、融通してもらえませんか」と冗談交じりに話した。このことから、中国政府がいかに大来氏を経済顧問として高く評価していたかが分かる。 

中国側は、顧問としての仕事をまとめた上で熟慮を経て、谷副総理が中日関係史上において意義深く、歴史的な初の試みを決定した。それは、日本側の提案に同意し、中国政府の現職の役人と日本政府の第一線を離れた役人、それに専門家が共同で「中日経済知識交流会」を設立することだった(余計なトラブルを避けるため日本側は「知識」を加えた)。 

80年7月に外務大臣を退任した大来氏は同年10月上旬、日本の対外経済関係担当政府代表として中国を訪問。同月中旬には、国土庁顧問で総合研究開発機構理事長の下河辺氏が中国を訪れた。中国社会科学院の馬洪副院長が、日本側と中日経済知識交流会の設立について協議を進め、以下の7点を取りまとめた。 

①交流会の名称 中日経済交流会や中日経済知識交流会、中日知識経験交流会、東方学術交流会という四つの名称から「中日経済知識交流会」とする②交流会の主旨 長期的で戦略的な問題を巡り、経済建設を中心とする③固定メンバーはそれぞれ7~10人、年次総会は専門家と補助スタッフを合わせて20人を越えない④顧問 中国側は谷副総理、日本側は大来対外経済関係担当政府代表、経団連の稲山氏も名誉会長として出席。具体的な責任者(代表)は、中国側が馬副院長、日本側は経済学者の向坂(さきさか)正男氏とする⑤事務局 日本側は大来事務所に置き、中国側は国家基本建設委員会と社会科学院を検討した結果、最終的に谷副総理が直接主管する国家基本建設委員会とする⑥事務局長 日本側は大来事務所の責任者で秘書でもある浅田源次氏、中国側は国家基本建設委員会の李景昭副主任⑦会議形式 毎年1、2回の例会(考察分科会は含めず)を開催。非公開で、取材に応じず、広報も行わず、内部関係者だけで行う。中日で交互に開催する。 

中日双方の協議結果を報告した文書に、谷副総理は同月26日、次のような指示を出した――大来氏はすでに4回中国に来ており、これまでに社会科学院で講演をしたり、私と少人数での会談を行ったりした。今回提出された定期的に経済知識の交流を行うやり方は、問題をより系統的に深く議論することができる。馬氏が日本側とまとめたプランに同意する。 

谷副総理はまた同月31日、人民大会堂で大来政府代表と面会した。大来氏は日中経済知識交流会の設立について、日本側の意見として同じように以下の6点を伝えた。①人数はそれぞれ7~10②交流会の顧問は、双方で協議した結果、谷副総理と大来が就任。できれば稲山氏にも顧問に就任してもらう。日本側の代表は向坂氏、中国側の代表は馬氏。日本側のメンバーは下河辺淳氏、官庁エコノミストの宮崎勇氏、小松製作所社長の河合良一氏、経済学者の篠原三代平氏、野村総研会長の佐伯喜一氏、新日鉄の河野力氏、日本興業銀行の小林実氏。中国側メンバーは、国家計画委員会顧問の薛暮橋氏、後に深経済特区のトップを務める国家輸出入管理委員会委員の李氏、国家経済委員会副主任の邱純甫氏、経済体制改革弁公室副主任の廖季立氏と同委員会基本建設経済研究所長の薛葆鼎氏、それに李副主任など③事務局は、日本側は大来事務所に設置し、事務局長は浅田源次氏が務める。中国側は国家基本建設委員会に置き、事務局長は同委員会の李副主任④交流会は毎年1、2回の年次総会を開催、視察チームと臨時会議は状況によって決める⑤交流会の名称は「日中経済知識経験交流会」か「東方知識経験交流会」のどちらでもよく、谷副総理に決めていただく⑥第1回年次総会を81年春に日本で開催する。 

これを受けて谷副総理は大来氏に次のように語った。「前回は下河辺さんに来てもらい、交流会のことについて中日双方が具体的な協議を進めました。以前は大来さんに来てもらいましたが、一日、二日の会議で系統的に話し合うのは大変難しいことです。組織をつくり、年に1、2回会議を開けば、事前に準備できて、言いたいことも十分に言え、会談はより細かく深く、より良い効果が得られます」 

さらに谷副総理は、メンバーの選定についてこう述べた。「日本側のメンバーは、大来さんが決めてください。こちらは異議ありません。メンバーは少数精鋭がいいです。数が多くなると、専門的な問題の検討にはふさわしくないです。必要になったら関係者に参加してもらえばいいでしょう。交流会の名称は、大げさにせず、宣伝せず、何と呼ぼうとも経済を中心にすべきです」 

大来氏は「それでは名称は『経済知識交流会』にしましょう。中国側は『経済交流会』と呼んでもかまいません」と答えた。谷副総理は大来氏の提案に賛成し、最後に「交流会は第一段階の協議ができました。今後何か問題があれば、活動の中で補足し、修正していきましょう」と喜んだ。 

大来氏の依頼を受けた交流会メンバーの小林氏が翌81年4月、中国側メンバーの李氏に次のような書簡を送った。「大来と向坂、下河辺らが日本側メンバーを集めて会議を開き、交流会の設立について以下の点で一致、決定した。日本側の顧問は大来、代表は向坂、メンバーは下河辺、宮崎、河合、佐伯、篠原、河野、小林」 

この書簡とともに、交流会設立の新聞記事や、第1回年次総会の日程など四つの資料も送られてきた。中国側は日本の新聞記事に基づいて中国語の記事を作成し、次のように紹介した。 

「中日両国の経済界はこのほど、両国人民の友好協力のさらなる発展を促進し、また常に両国の長期的かつ総合的な課題を討論し、相互に知識と経験を交流するために、中日経済知識交流会を設立した。この交流会は、谷牧副総理と大来佐武郎日本政府代表が推薦した若干名の専門家によって作られ、毎年1回の定例会議以外に、必要に応じて共同しての調査研究も行う。第1回の年次総会は5月中旬に日本で開催され、中国の経済知識交流会のメンバーである薛暮橋氏、馬洪氏などが5月6日、日本に赴き会議に参加する」 

こうして中日経済知識交流会は順調にスタートした。 

張雲方  

1943年生まれ。国務院発展研究センター研究員。人民日報国際部編集者記者、人民日報東京特派員(197580年)、国務院発展研究センター弁公庁副主任外事局責任者、国務院中日経済知識交流会事務長、中国徐福会会長、中華全国日本経済学会副会長、中国中日関係史学会副会長、中国徐福国際交流協会顧問、中日陝西協力会顧問などを歴任。 

人民中国インターネット版

 

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