中日経済知識交流会(中) その後の紆余曲折
張雲方=文・写真提供
中日経済知識交流会は1981年、箱根で第1回の年次会を開いた。中国側からは馬洪氏をはじめ、薛暮橋氏、廖季立氏、李灝氏、邱純甫氏らが参加した。日本側からは大来佐武郎氏、向坂正男氏、河合良一氏、下河辺淳氏、篠原三代平氏、佐伯喜一氏らが出席した。これ以降、中国経済の発展の需要によって、中日双方のメンバーの顔ぶれは随時、変更・強化された。
基本的な体制は、中国側の顧問は谷牧副総理、日本側は大来佐武郎・対外経済関係担当政府代表が務め、中国側の代表は馬洪氏(社会科学院院長、国務院副秘書長、後に新設された国務院発展研究センター主任)、日本側は向坂正男氏(国際エネルギー政策フォーラム議長)となった。
日本側の当初メンバーは、下河辺淳氏(総合研究開発機構理事長)、宮崎勇氏(前経済企画庁長事務次官)、河合良一氏(小松製作所社長)、佐伯喜一氏(野村総研会長)、篠原三代平氏(アジア経済研究所会長)ら。後に千速晃氏(新日鉄社長)や鈴木淑夫氏(日銀理事)、福川伸次氏(元通産省事務次官)、中江要介氏(元駐中国日本大使)、佐藤嘉恭氏(大平首相秘書官)らが加わった。
中国側の当初メンバーは、薛暮橋氏(新中国成立後の初代国家統計局長で国家計画委員会副主任、後に国務院発展研究センター名誉主任)、廖季立氏(国務院体制改革委員会副主任)、李灝氏(国家輸出入管理委員会委員、後の深圳市長)ら。後のメンバーは、房維中氏(国家計画委員会常務副主任)や朱鎔基氏(国家経済委員会副主任などを経て後の国務院総理)、李景昭氏(国家基本建設委員会副主任)、沈覚人氏(対外経済貿易部副部長)、高尚全氏(国務院体制改革委員会副主任、廖季立氏の死亡による後任)、劉鴻儒氏(中国人民銀行筆頭副頭取を経て後の中国証券監督管理委員会主席)、孫尚清氏(国務院発展研究センター副主任)、浦山氏(社会科学院政治・経済研究所長)など。いずれも現職の副部長(副大臣)クラス以上が務めた。
私は85年、谷副総理から国務院中日経済知識交流会の李景昭副主任の後任に推薦され、事務局長を任された。当時、私は人民日報社の国際部で北東アジアの編集と報道を担当しており、日本だけでなく韓国や朝鮮、ベトナムの報道の面倒も見ていた。言うまでもなく、日本に関する社説や短評は全て私が執筆していた。慣例として、朝鮮の祝祭日にも社説を書かねばならない。
あの頃、華国鋒党主席や胡耀邦総書記などの日本訪問の社説や日本の教科書問題の短評や社説、さらに中日青年の大交歓イベントや朝鮮の青年500人の訪中、アジア太平洋青年友好会合に関する各社説の他に訪問団の随行取材などもあり、いずれも私が自ら手掛ける必要があった。また、金日成主席や鈴木善幸首相、中曽根康弘首相などの訪中についての社説や単独インタビュー記事、取材記者から送られている原稿の編集などの仕事もやらざるを得なかった。
このため、突然の人事異動に人民日報社も当惑した。私が所属する国際部では、二人の副主任(部長クラス)を国務院発展研究センターに派遣し、異動について話し合った。しかし同センターの答えは、これは谷副総理の決定で、異なる組織の国務院中日経済知識交流会のことに本センターでは口を挟めない、ということだった。結局、人民日報側が譲歩し、私は交流会の事務局長の職に就くことになった。また同時に、国務院発展研究センターの総務次長と同センター外事局の代表も兼任した。
日本側メンバーの宮崎勇氏と河合良一顧問が95年、中日間のハイレベルのチャンネル開設を提案した。日本側が人選したメンバーは、中曽根康弘、竹下登の両元首相と羽田孜前首相と加藤紘一自民党幹事長ら10人の大物政治家で、中国側に相応するカウンターパートの人選を依頼した。これは非常に重要な提案だったが、結局、実現しなかった。
交流会の中国側メンバーは、全て各部・委員会(省などに相当)の主な指導者で、年齢的な理由で数年後には第一線を退く予定だった。私は96年、交流会の馬代表と谷元副総理に新たな補充メンバーの人選案を提出。すぐに谷氏と国務院の承認を得て、国家計画委員会や対外経済貿易部などからも新メンバーの補充について同意を受けた。国家計画委から馬凱副主任が推薦され、貿易部からは劉山在副部長を推薦され、国務院に承認された。
その後しばらくし、年次会が開かれる直前に馬氏から電話があり、近いうちに自身が国務院の副秘書長に就任することになり、計画委を代表して中日経済交流会に参加することができなくなった、と伝えてきた。また続けて貿易部の劉氏も、香港の華潤公司(会社)の会長に就任することになり、新たなメンバーを補充するプランは挫折してしまった。
97年に私は谷氏に報告書を書き、自身も若くはなく、中日経済知識交流会の事務局長としても長くなっているので、若い人に事務局長の職を引き継いでもらいたいと願い出た。ところが谷氏からは、「君が総理に報告書を書いてくれたまえ。私はもう交流会の顧問をせず、李嵐清副総理に引き継いでもらう」と思いがけない言葉が帰ってきた。
交流会は谷氏によって創設されたので、退任となると中日双方への影響だけに留まらず、交流会の存続自体にも及ぶ。私は問題を起こした子どものように、どうしてよいか分からなかった。だが、谷氏が決めたことなので、変わる可能性はない。しばらくたった後、谷氏に代わって朱鎔基総理に報告書を書いた。谷氏はこの報告書に対し、「張雲方同志の意向に沿って新たな仕事を展開されるようお願いします」というひと言を添え、私の仕事に対する高い評価と配慮を示してくれた。
報告書には、馬代表が辞めた後、李灝氏が後任となることも書き込んだ。当時、馬氏が代表職から退くため、事務局も計画委に移すプランが検討されていた。朱総理と国務院は、この谷氏の報告を承認した。李灝氏は非常に謙虚な人で、最終的には代表職を受け継がず、事務局も計画委に移されることはなかった。だが、この人事異動の後、中日経済知識交流会は国務院の非常設組織から、国務院発展研究センターの傘下へと移った。
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