中日経済知識交流会(下) 熱い友情の握手

2024-09-19 14:02:00

張雲方=文写真提供 

日経済知識交流会は、中国の経済発展と中日両国の友好協力に大きな役割を果たした。 

中国経済への提案に始まり、経済構造の進化や企業改革、外資導入、外資系企業の優遇政策、保税区や保税倉庫の確立、外資系企業の対中投資政策、合弁企業の法的地位など、全て中日経済知識交流会で幅広くかつ深く検討されたものばかりだ。 

1980年代の初め中国は、過大な建設規模が原因で、日本と締結した全ての経済協力プロジェクトを一方的に止め、日本に大きなショックを引き起こした。これには日本の経済人の多くが理解に苦しんだ。 

中国政府の経済顧問を務め、日本の対外経済関係担当政府代表で同交流会の顧問でもある大来佐武郎氏が81年2月、外務省や通産省(現経産省)、大蔵省(同財務省)、経済企画庁(同内閣府)など政府の各部門からなる代表団を率いて訪中した。中国側は、鄧小平氏や谷牧副総理、姚依林副総理など各指導者が大来氏と会談した。 

中国の財政難の原因を理解した大来氏は、友人という立場で中国の指導者にこう話した。「中国側の問題点はよく分かりました。しかし、これは国際的にマイナス面の影響が大きく、中国の国際的な信用にも関わるので、適切に処理されるよう望みます」。大来氏はまた、中国が財政資金不足を解決する方法として、日本政府の低利子借款と民間資金、プロジェクト資金を利用するよう申し出た。 

これがその後、日本が中国の二つの水力発電所建設に円借款(ODA、政府開発援助)の利用を認めた理由だ。また、円借款が商品借款に変わって食糧や繊維、テレビなどの必要消費財を購入することが認められ、これを中国で販売し、もうけた金が中日協力プロジェクトの資金不足に充てられたいきさつでもある。 

ここから日本の民間の対中融資が始まり、さらに日本の輸出入銀行から借りた商品借款が、中止や取りやめとなっていた多くの中日協力プロジェクトを救った。 

中国の国務院特区弁公室と中国人民銀行は1980年代、(経済)特区通貨の発行を検討したことがある。谷国務委員は事の重大さから、大来氏の意見を求めた。すると大来氏ははっきりと答えた。「私は特区通貨の発行には反対です。理由は、人民元にはすでに二重以上の交換レートがあり、外貨兌換券(8095年に流通した外貨と交換できる銀行券)もそうです。もし特区通貨を発行したら少なくとも二重のレートが現われ、必然的に中国の正常な金融秩序に無用の混乱を招くでしょう。中国は最終的に通貨を統一すべきであり、特区通貨を発行する必要はありません」。大来氏の話を聞き入れた中国は、印刷まで終えていた特区通貨の発行を取り止めたのだった。 

89年に起きた「六四事件」(天安門事件)後、中国は国際社会の経済制裁を受けた。元経済企画事務次官で中日経済知識交流会代表の宮崎勇氏は、同事件後に中国を訪問。世界各国の大統領首相経験者がメンバーの国際会議「OBサミット」の事務局長として、中国に対する理解を示し、当時の李鵬総理と会見した。日中経済知識交流会のたゆまぬ努力により、日本は世界で最初に対中経済制裁を解除した国となり、中日友好史上で初めてとなる天皇皇后(現上皇上皇后)両陛下の中国訪問も実現した。 

95年1月17日、日本の阪神淡路地区で最大震度7(マグニチュード73)の直下型地震が発生した。元国土事務次官の下河辺淳氏が中日阪神淡路復興委員会の委員長となった。下河辺氏は、阪神地区と中国の長江流域の経済協力という創造的な構想をすばやく提起し、日本の経団連を筆頭に各業界が参加した「日中阪神神戸―長江中下流域交流促進協議会」を組織した。同協議会はまた、各部門がそろった専門部会を設け、中国各省と企業の橋渡し役となった。 

阪神地域と長江流域の経済協力は、紛れもなく長江流域の経済発展に絶好のチャンスを提供した。私はレポートにまとめて谷氏と朱鎔基総理に送った。二人もこの提案を大変気に入った。長江流域の各省はもっと積極的で、それぞれが関連団体を作り、先を争って参入しようとした。だが残念なことに、靖国神社の問題で協力計画は頓挫してしまった。 

中国の行政改革(機構改革)も、中日経済知識交流会の日本側から啓発されたものだ。宮崎勇氏は97年、橋本龍太郎内閣の行政改革委員会の委員長代理に就任した。宮崎氏は、行政改革が経済発展に及ぼす状況を谷氏と朱総理に説明した。 

朱総理は98年、宮崎氏と会見した際、こう語った。「われわれは、国務院の機構と人員の両方を半減するという改革を1年でやり遂げました。改革が苦しいとき、わたしはいつも日本の行政改革とあなたの話をして皆を励ましました」 

中日経済知識交流会には、胸を打つメンバー同士の交流のエピソードもある。86年に新疆ウイグル自治区で開かれた第6回交流会のことだ。会議後、谷国務委員は向坂正男氏を伴い、トルファン(吐魯番)にある1700年以上の歴史を持つアスターナ古墳群を見学した。参観を終えたところで突然、ロバを駆り立てる一人のウイグル族のお年寄りの姿が目に入った。日本にはロバがあまりいないので、向坂氏ら日本側のメンバーは足を止めて見入った。谷氏は、ウイグル族のお年寄りがロバに騎乗する習慣があるのを思い出し、向坂氏に一度ロバに乗る楽しさを味わってみるよう、「手綱を引いてもらうから、思い切って乗るだけですよ」と持ち掛けた。 

中国の伝統的な文化の「ロバ騎乗」は、風雅を愛する文人の優美な風物詩だ。「踏雪尋梅」(文人が風景をめで、苦心し詩を作る)は、唐代の詩人孟浩然のロバに騎乗して雪の中で梅の花を探す詩から来ている。晋代の「竹林の七賢」の一人、思想家の阮籍(げんせき)は、初めてロバに騎乗して宮廷に参内した高官だ。 

詩仙李白はロバに乗るのが好きで、詩聖杜甫も好きだった。杜甫の「騎驢十三載、旅食京華春」(ロバに騎乗し13年、食客として長安の春を過ごす)の詩は最も素晴らしい描写だ。ロバの騎乗は客に対するもてなしの一つでもあり、客が騎乗したロバの手綱を引くことは、中国の伝統的な最高の礼儀だ。 

向坂氏は自分のために谷氏がロバを引くのに恐縮し、「あなたは一国の副総理も務められた方で、しかも日本文化の源は中国なので、生徒の私がそんな勝手なことはできません」とあわてて断った。すると谷氏は、「あなたは中国政府の経済顧問で、私の先生です。その先生が乗ったロバを引くのは中国のおもてなしですよ」と答えた。結局、向坂氏が折れてロバに乗り、二人が握手を交わすという歴史的な一幕となった。 

中日経済知識交流会の中国経済の発展に対する促進作用により、上海や(しん)(せん)、天津、陝西などの地方政府も次々に見習った。交流会の日本側メンバーを招き、独自の経済交流会を作った。 

中日経済知識交流会の中国の改革開放や経済発展に果たした役割は、具体的な数字や政策変更などのミクロ面で多く見られた。だが最も重要なのはマクロ面、つまり理念の啓発だった。谷氏は交流会を思想を解放し種をまく実践的な試験田とし、中国の政府高官たちの思想の窓を広げ、人々が経済発展を考える道筋を開いた。そして、中国経済を世界の経済発展の潮流に急速に溶け込ませ、中国の全面的な発展のために時間と空間を勝ち取ったのだった。 

人民中国インターネット版

 

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