3000人訪中の舞台裏(前編)困難乗り越え挙行

2024-10-21 10:24:00

張雲方=文写真提供

年は第2回中日青年友好交流――「日本青年3000人訪中」活動から40周年となる。1984年を振り返ると、日本の青年たちと交流した半月ほどのあの楽しいときがよみがえってくる。 

「日本青年3000人訪中」活動は、胡耀邦総書記が提案したものだ。胡総書記は831126日、都内渋谷のNHKホールで、数千人の日本の若者を前に、「来年の9、10月、わが国の最も素晴らしい秋晴れの季節に皆さん3000人の若者を1週間、わが国に招待します」と声高らかに呼び掛けた。胡総書記のこの話に会場から熱い拍手が送られた。中日青年友好交流の大事業はこうして決まった。 

実は当初、胡総書記の考えでは日本の青年1万人を招待するつもりだった。だが、当時の受け入れ能力から、最終的に3000人に落ち着いたのだった。 

中日の友好交流の歴史には、古くは遣隋使や遣唐使があり、19世紀末には中国から5万人近い若者が日本に留学し、1965年には第1回中日青年友好交流などの壮挙があった。だが、3000人余りの日本の若者が同時に訪中するというのは初めてだった。私はこれを中日友好史上の盛会と呼んでいる。 

中日青年友好交流の挙行が決まると、両国はそれぞれ動き始めた。中国側にとって、これは全国全国民全党を挙げて行う前例のない活動であり、また中国が開放改革の揺るぎない決心を示す場であった。 

早速、共産主義青年団(共青団)中央と中華全国青年連合会、中日友好協会などの組織が準備委員会を発足させた。政治局委員で中日友好協会の王震名誉会長が準備委員会の主任に就いたほか、王兆国共青団第一書記が同委員会第一副主任に、中華全国青年連合会の胡錦濤主席(後の党総書記国家主席)が同事務長、同連合会の劉延東副主席が同副事務長にそれぞれ就任した。 

次に日程とルートが決められ、中日青年友好交流は84年9月24日~10月8日に行われ、3000人余りの日本の若者が計3陣4団に分かれて入国することが確定した。 

日程では、第1陣の2団1500人は9月24日、上海から入国。上海南京杭州を訪問し、29日に北京に到着。第2、3陣の各1団は、9月2829日に北京から入国。全4団の日本の若者は北京で合流後、中国の国慶節を祝う式典に参加。また政府の要人が住む中南海を見学する。 

交流期間は延べ15日に及び、若者たちはそれぞれ1週間かけて工場や農村、学校を見学。北京上海杭州南京武漢西安の6都市を訪れることになった。こうして招待の具体的なプランが決まり、合言葉は「気楽に楽しく元気に多様的」となった。 

中国全土から集められた接遇スタッフは5000人(サービス部門は含まず)に上り、さらに随行の医師や警護スタッフなども加わった。その後、日本政府と47都道府県の自治体友好団体に向けて招待状を送付した。 

日本側の行動も素早かった。関係者による訪中プランの検討が84年1月に行われた。また同年4月には、日本青年団協議会を中心とした国内36の青年組織と日中友好6団体が共同し、「日中青年友好交流組織委員会」を発足させた。同組織委の代表には日本青年団協議会の小野寺喜一郎会長が選ばれ、事務局は都内の日本青年会館に置かれた。 

限られた条件のため、事務局の部屋はわずか20平方で、全国各地から募集し集めた事務スタッフもたった7人だった。だが、あふれる熱意で日夜を問わず仕事に打ち込むスタッフたちは、24時間営業の「セブン_イレブン」をもじって「休まないチェーン店」と呼ばれた。事務局で一番目を引くのは日替わりのカウントダウン看板で、皆に奮起を促していた。 

9月20日、中日青年友好交流の中日側の各準備作業が整った。日本側が送って来たリストは、参加217団体3082人、取材記者65人だった。私がざっと数えたところ、217団体には古くからの友人とその子女らの4グループがあった。その中には、日中友好に長く尽くした実業家の岡崎嘉平太氏や政治家の宇都宮徳馬氏、鳩山威一郎氏、外交官の法眼晋作氏、大平(ひろし)氏(大平正芳元首相の次男)、松山バレエ団創立者の清水正夫氏、ジャーナリストの西園寺一晃氏、日本青年館の板本登氏、日本青年団協議会の柳本嘉昭氏、茅整三氏(元東大学長茅誠司氏の三男)、池田城久氏(宗教家池田大作氏の次男)らがいた。 

文化芸術界も四つのグループがあり、俳優の中野良子氏と宇津井健氏、歌手の金沢明子氏と芹洋子氏らがいた。代表団は老年中年青年で構成され、日本の政治経済実業学術教育スポーツなどの各界を網羅し、年齢は35歳以下が90%を占めた。また、後に首相となった菅直人氏や野田佳彦氏の名前もしっかりと載っている。 

一番大変だったのは中日双方の事務局だ。日本側の事務局スタッフ7人は5カ月の間、青年友好交流のデザインや歌の募集や各方面との連絡、日程調整、参加者リスト作成などの仕事に忙殺され、ほとんど休む間もなかった。特に作業ピーク時の1週間は、小野寺会長、事務局スタッフ共にほとんど事務室に泊まり込み状態だった。 

中国側の事務局は、スタッフの数は日本をはるかに上回っていたが、プランの作成から具体的な実施まで――中国側の接遇担当者も含め5000人近い人々の毎日の食事と宿泊施設の手配、見学場所との調整、交流プログラムの審査、空港への出迎え見送り、セキュリティーの確保などあらゆる面を網羅していた。そんな状況を劉延東副事務長は、「私たちは皆すっかり(よい)っ張りになってしまいましたが、逆にその大変さを楽しんでいましたよ」と語った。 

私は、中日青年友好交流に参加した他の報道機関の記者と違い、社説を書き、四つの交流団の同行取材もしなければならなかったので、昼も夜も休みなく半月余り各代表団の間を奔走した。 

9月22日、『人民日報』の社説「友好交流の空前の盛会」の初稿ができ上った。私は、中日青年友好交流準備委員会の王震主任の事務室に電話をかけ、原稿をチェックするかどうか尋ねた。答えは、同委員会の王兆国第一副主任に見せてください、とのことだった。当時、王兆国氏は同委員会の第一副主任だけでなく、党中央弁公庁の主任も務めており、多忙を極めていた。王兆国氏からは、同委員会事務長の胡錦濤氏などに目を通してもらうよう言われた。そこで私は、胡氏ら同準備委員会の関係者が事前準備の拠点としていた北京の香山ホテルに駆け付けた。 

私が胡氏に社説の最終稿を渡すと、胡氏はすぐさま劉延東副事務長を呼び、その場でチェックし始めた。ゲラを読み終わると、胡氏は遠慮がちに「少し言葉遣いを変えてもよいですか」と聞き、鉛筆で手直しした。1時間もたたずに原稿チェックは完了した。 

ホテルを離れる際、胡氏はスタッフに持って来させた国慶節での天安門臨時観閲台の取材記者証を渡し、「健康に気を付けて。何かあれば私に言ってください。取材の成功を祈ってます」と言ってくれた。 

私は今も、胡錦濤氏と劉延東氏が当時チェックした社説のゲラと、天安門臨時観閲台の記者証を大切に残している。 

1984年9月24日、私は飛行機で上海に到着し、日本の友人の訪中第1陣を出迎えた。また同日、社説「友好交流の空前の盛会」が『人民日報』の第1面に掲載され、中日青年友好交流の幕が開けたのだった。 

 

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