3000人訪中の舞台裏(後編) 友好の金の橋を懸ける

2024-10-31 16:24:00

張雲方=文写真提供 

日青年友好交流参加のため訪中する1500人が1984年9月24日、上海に到着した。15日間の中日青年友好交流は、この都市で幕を開け、またこの都市で最後の一陣の日本の客人たちを見送った。 

上海での中日青年友好交流は何度も山場を迎え、私はそれを「熱く、温かく、勢いがある」と形容した。上海体育館では、1万8000人が日本の客人を迎え、3500人の中高生が歓迎の絵柄を形作った。虹口公園では、300のグループが日本の友人たちとペアをつくって交流した。青年宮では、「中日青年卓球大会」「中日青年歌唱コンクール」「似顔絵コーナー」などのイベントがあり、非常に盛り上がった。上海工業展覧館では、「パンダとツル」のバルーンが見守る中で「カクテルパーティー」の美しい光景が繰り広げられた。 

南京、杭州、武漢、西安での中日青年交流も素晴らしいものだった。南京では、毛沢東思想学院団、新制作座劇団、大学生第6団、日本民主青年同盟代表団、日本婦人会議青年代表団などが、江東門の日本軍大虐殺の現場の参観を希望。日本の青年たちは記念碑の前で、色紙で作った花輪を供え、「若者たちに歴史を知らせ、悲劇の再演を決して許しません」と大きな声で述べた。 

杭州では、中日青年が120隻余りのボートに分乗して西湖を遊覧。湖心亭のあずまやには演芸交流大舞台が設置された。柳浪聞鶯(西湖十景の一つ)を訪れた日本の青年たちは「日中不再戦」の石碑の前で記念撮影。大学生第8団の学生は「『日中不再戦』は私たち若者の心の声を表しています」と語った。 

武漢では、中日青年が市内中心部の青少年宮で万人交流大会を催し、舞台の上も下も一緒になって『幸せなら手をたたこう』を歌った。260人余りのプロとアマチュアの美術関係者が友好交流のためにデザインした400種類余りのポスターや歓迎イラスト、記念バッジが、大いに人気を集め、黄鶴楼と富士山を背景にした梅と桜のバッジは、皆が先を競って手に入れるプレゼントとなった。 

西安では、中日青年は興慶宮公園でキャンプファイアの集いを開催し、唐代の中日両国の友好交流を共に振り返った。大平裕氏は大雁塔の解説員が、当時、父親(大平正芳首相)を案内した解説員だと聞いて、とても興奮した様子だった。大平首相は西安で「温古知新」という揮毫(きごう)を残し、裕氏は「慶国慶三十五周年」という題詞を書いた。日中友好協会秘書長の安部哲也氏も私に「東方燦現紅太陽 中日青年志気昴 可看今朝掘井士 蒼茫大地友情芳」という漢詩を書いてくれた。 

9月29日、3000人の日本青年が北京に集まった。夜、中華全国青年連合会、中華全国学生連合会、中日友好協会の3団体が人民大会堂で盛大な宴会を催し、3000人の日本の友人を歓迎した。宴会には中国の主要な指導者が出席した。王震氏は宴席で「私は今世紀初めに生まれた人間で、70年余りの人生で、中日両国が敵視から和解、対抗から友好へと向かう歴史的過程を身をもって経験し、両国の仲の良い付き合い、長期的な友好の貴重さと重要性を深く感じた」「今日、中日友好事業は、前人の事業を受け継ぎ将来の発展に道を開く重要な時期にあり、特に私たち両国の青年が得難い歴史的経験をしっかりと記憶し、中日のより友好的な新世紀を切り開いていく必要がある」と述べた。私は会場の熱気に染められ、宴会の間に人民大会堂の電話を使って、人民日報総編集室に口頭でニュース原稿を伝えた。これが翌日の『人民日報』トップ右上に掲載された、3000人の日本青年を歓迎した宴会の記事となった。 

9月30日、1万8000人の中日両国の青年が首都体育館で北京歓迎大会に参加した。日本の友人は、釧路えぞ太鼓、黒田節、北国の春、鉄腕アトム、八木節などのプログラムを披露し、日本屈指の民謡歌手とたたえられる金沢明子氏が、この中日青年友好交流のために創作された『日中友好青春音頭』を熱唱した。50年後の今日、当時の情景を思い出すと今でも血潮が沸き立つ感じがする。 

10月1日9時、3000人の日本青年が天安門の臨時観礼台に上った。これは中日友好史上空前の壮挙だった。日本の男性は祭日の「法被」を身に着け、女性は優雅な和服を着て、京都の友人は中国の国旗をプリントしたシャツにわざわざ着替えた。観礼台の最前列には中日友好に尽力した先輩たちと日本の芸能界の方々が座った。10時、国慶節祝賀式典が始まり、中山服を着た鄧小平氏がオープンカーに乗って天安門城楼から出てくると会場全体に拍手が鳴り響いた。まずは閲兵式、それから各界のパレードの隊列が天安門の観礼台を通り過ぎていく。突然、観礼台とパレードの群衆から驚くような叫び声が上がった。北京大学の学生が竹ざおで掲げたシーツに、「小平好(こんにちは小平さん)」と大きく書かれていたのだ。私の同僚の人民日報撮影部の王東氏は急いでシャッターを切り、世界を驚かせる歴史的瞬間をとどめた一枚を撮った。 

同日午後、3000人の日本青年は徒歩で人民大会堂から中南海まで見学した。みんなで豊沢園の毛主席故居から瀛台まで歩いたが、中には中南海でボートに乗ってオールを漕いだ若者もいた。胡耀邦氏、鄧穎超氏ら中央指導者が中南海でそれぞれ3000人の日本青年と会見した。胡耀邦総書記はさらに日本青年と共に瀛台を遊覧。瀛台で日本青年は即興で阿波おどりを踊った。胡耀邦氏は芹洋子氏が幼い娘を連れていることに気付き、うれしそうに歩み寄って子どもの笑顔にキスをして、「中日友好は若者世代と民間にかかっています」と意味深長に述べた。さらに宇津井健氏に対してはユーモアを交えて、「あなたの演じた父親役は、中国の人々を感動させました。皆があなたを理想のお父さんとして見ています」と話した。 

その夜、3000人の日本青年は天安門広場の花火大会に出席した。中国の歌手が、施光南氏が中日青年友好交流のために作曲した『友誼之歌飛向21世紀』を歌った。みな黒い髪、みな黒い目……それは私たち若者の声だった。言葉は通じなくとも、歌声と踊りが平和と友好を望む中日青年の共通の心の声を伝えていた。花火が夜空を赤く照らし、このときの天安門広場には歌声、笑い声、歓声が絶え間なく続き、生花、心の花、花火が美しく咲き乱れていた。人々は名残惜しくてなかなか帰ろうとせず、交流は深夜2時まで続いた。 

別れの日がやってきた。私の古い友人である岡崎嘉平太氏と宇都宮徳馬氏は、「日中青年友好交流の深い意義は、未来につながる友好の金の橋を懸けることにあり、日中両国の未来は毎日が好日となるでしょう」と言っていた。10月6日、私は再度上海に飛び、日本青年の最後の一陣を見送った。青年宮での送別会で、栗本(旧姓松崎)キミ代氏が私にこう言った。「以前、周総理は中南海でホームパーティーを開いて私をもてなしてくれました。今日は、全ての中国の人々が日本青年を歓迎してくれています。この大海のような度量が示しているのは中国の光り輝く文化です。日中友好は永遠の大きな流れとなるでしょう」 

1010日、私が書いた「不可磨滅的一頁(不滅の1ページ)」と題した論説文が『人民日報』のトップページに掲載された。文中では次のように書いた。15日間で、3000人の日本青年が200余りの工場、学校、政府機関、企業事業団体を参観。10万人の中国青年と交流し、100回余りの座談会や交歓会が開かれた。中日青年友好交流は、中日両国の人々の大きな精神的な財産で、中日友好史上に輝かしい不滅の1ページを残した。中曽根首相は次のように述べた。3000人の日本青年は友好大使で、双方がまいた友情は、価値を計算できるものではない――と。 

50年はあっという間だ。当時、中日青年友好交流に参加した友人たちよ、今もお元気だろうか?私は皆さんをとても懐かしく思っている。 

 

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