鄧小平氏と日本の思い出

2024-12-23 15:57:00

張雲方=文写真提供 

末がまたやって来た。今年の最終回は、私がかつて関わった、鄧小平氏と日本にまつわる二つの事柄について書きたいと思う。 

一つ目は教科書事件について。 

1982年6月、日本の文部省が検定した歴史教科書は、日本の中国侵略戦争の史実について多くの間違った修正がされたものだった。甲午戦争(日清戦争)が「日清両国の軍艦の間で起こった海戦」と改められ、華北侵略が「華北進出」と書かれ、南京大虐殺が「中国軍の強い抵抗にあったため」と改ざんされるなどしていた。日本の歴史改ざんのやり方は国際社会から強い非難を受けた。 

鄧小平副総理が自ら指揮をとり、日本の歴史改ざんを批判した。鄧小平氏は「最近、日本が教科書を修正し、歴史を改ざんしたことは、われわれに歴史を振り返り、人々を教育する機会を与えた。この件は中国国民を教育しただけでなく、日本国民をも教育したという、実はとても良いことだった。さらに重要なのは、われわれの子どもたち、若者たちがこの『授業』を受けるべきだということだ。彼らは歴史をあまり知らず、一部の歴史は忘れられている。特に対外開放政策を実施し、外国投資を奨励し、友好を語っていると、この一面を見逃しやすい」と述べた。続けて、「教科書問題の重要性は、問題自体にあるだけでなく、重要なのは、後世の人々を教育するという問題にある」「ここ数年、われわれは日本に難題を出したことがないが、日本の教科書問題は、われわれに大きな難題を出した」「われわれは日本政界の一部の人々が日本国民の感情を強調していることに気付いたが、彼らに気付いてほしいのは、中国国民の感情、被害者の感情の問題もあることを忘れてはならないということだ」と語った。鄧小平氏は「彼らの言うところの教科書修正、中国侵略の歴史の改ざんが内政とかいうもので、他国は干渉できない、という点について、反論しなければならない。いわゆる内政という言い方、その目的は過去の活動を侵略ではなかったと言い張ることであり、彼らのこの観点を論破しなければならない」と指示した。 

鄧小平氏はさらに次のように述べた。「彼らはわれわれに良い機会を与えてくれた。なぜなら長年この歴史問題は触れられていなかったからだ。このテーマを出したのは良いことだ。われわれの子どもたちは友好だけを知っていては駄目で、歴史も理解しなければならない」 

7月29日、鄧小平氏は小範囲の会議を主宰し、教科書問題を特に検討した。廖承志氏、胡喬木氏、姫鵬飛氏ら同志も参加した。鄧小平氏は次のように指示した。「ニュースを出し、文章を載せ、彼らが中国侵略の歴史を改ざんしたことと彼らの観点に反論しなければならない。われわれが書く文章は、教科書修正、中国侵略の歴史の改ざんが、少数の軍国主義者による日本の軍国主義を復活させようとする一種の活動で、将来何かを行うための世論の準備であることをはっきり指摘する必要がある」。最後に、鄧小平氏はきっぱりと、「今年の8月15日、人民日報は社説を書いて記念し、中日友好とその歴史的な根源を強調する。その中には日本の中国侵略の歴史についての部分が必要だ」と述べ、「中日友好の歴史の大河の中で、不愉快なのは短い一時期のみだ。問題は、その歴史について正しい認識を持って向き合うことであり、改ざんと歪曲はできないし、許されない。こうしてこそ、中日両国の関係は正しい軌道で前進でき、中日両国の友好の望みは本当に実現できる」と強調した。 

当時、私は人民日報国際部にいて、鄧小平氏がこの教科書事件に対処した様子を目の当たりにした。私たちは鄧小平氏の指示の精神に基づいて、事実を挙げ、道理を説き、数日おきに評論文を発表した。7月以降、前後して「日本侵略中国的歴史不容改(日本の中国侵略の歴史を改ざんすることは許されない)」「必須牢記這個教訓(この教訓を必ず心に刻まなければならない)」「忠言逆耳利于行(忠言は耳障りだが人の行為には役立つ)」「還是老実為好(やはり正直な方がいい)」などの多くの評論文を発表した。8月15日、鄧小平氏の要求に従って、私は「前事不忘,後事之師(前事を忘れざるは後事の師なり)」という社説を書いた。 

国際社会の抗議と批判の下、日本政府は自己の間違いを正視し、正すしかなくなった。まず官房長官の宮澤喜一氏が、中日共同声明の精神が日本の学校と教科書検定でも尊重されるべきであるとの態度を表明した。9月6日、駐中国日本大使の鹿取泰衛氏が命を受け、外交部副部長の呉学謙氏と会見し、日本の鈴木善幸首相の「教科書問題を一日も早く解決する」「真剣に修正する」ということについての決定を述べた。9月10日、私が書いた論説文「希望日本政府言必信,行必果(日本政府が『言必ず信、行必ず果』であることを望む)」が新聞に掲載され、教科書事件はこれで一段落した。 

二つ目は、鄧小平氏が引退前に会見した最後の一陣の日本の客人について。 

鄧小平氏は77年8月に復職した。90年に第7期全国人民代表大会第3回会議が北京で開催され、彼が中華人民共和国中央軍事委員会主席の職務を辞し、完全に指導者の職務から退くことが批准されるまで、13年間、鄧小平氏は日本の客人に前後97回接見した。彼が政界引退を宣言してから最後に接見した一陣の客人も日本の友人だった。 

891113日午前10時、中山服を着た鄧小平氏は人民大会堂福建ホールの入り口で、日本の経済団体連合会会長の斎藤英四郎氏を最高顧問とし、日中経済協会会長の河合良一氏を団長とする日中経済協会訪中団を出迎えた。着席後、鄧小平氏は日本のゲストたちに向かって、「古い友人である皆さんを歓迎する。長年、あなた方は中日協力の分野でたくさんの仕事をし、大いに努力してきた。とても感謝している」と述べた。 

続けて、鄧小平氏は驚くべきことを述べた。「私は世界に宣言する。日中経済協会代表団は私が正式に会見する最後の代表団だ。私はこの機会に、政治人生に正式に別れを告げる。私は今後二度と集団、党、国家を代表して客人と会見せず、真の引退を体現する。今後誰か友人が中国に来たら、会わないのは失礼だから、私が客人の宿泊先を訪れ、友情を語り、政治的ではないことについて話をする」 

鄧小平氏は斎藤氏と河合氏に、中国のさらなる整備整頓、改革の深化などに関する状況を紹介した。鄧小平氏は次のように述べた。「中国が10年間制定してきた方針政策は変わらず、発展戦略も変わらない。整備整頓はただより良く前進するためだ。ここしばらく、われわれの経済建設は速く進めすぎて、最後の頑張りが少し足りなくなっている。だが後悔はしていない。われわれは階段を一つ上がり、小さな一歩ではなく、大きな一歩を踏み出した。われわれはこの10年間で喜ばしい成果を上げたが、大きな失敗もあった。それは政治思想教育が減り、愛国主義宣伝も減ったということだ。若者の中には外国の月が中国より丸いと考えている人もいて、これは実は一種の西洋崇拝主義者の思想だ」。最後に鄧小平氏は丁寧な言葉で心を込めて、「中日両国の協力には厚い基礎があり、このような協力は長期的に維持していくべきだ。われわれの中日友好の方針は変わることなく、日本側が自省し、尊大にならないことを望む。中国側は自ら努力向上し、卑屈になってはいけない。そうしてこそ、友情と協力が永遠に続いていくのである」と述べた。 

光陰矢のごとし。今日、鄧小平氏が私たちから去ってすでに二十数年がたった。だが、彼の言葉はいまだ私たちの耳元で響いている。 

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