鄧穎超副委員長の訪日を振り返る(上) サクラの季節に東隣を訪ねて

2025-01-13 16:33:00

張雲方=文写真提供 

979年、日本のサクラが満開になる時期の4月8日午後、中国の全国人民代表大会代表団が搭乗した専用機が東京の羽田空港にゆっくりと着陸した。空港で待っていた日本の衆議院議長の灘尾弘吉氏は、機内に入って鄧穎超副委員長を出迎えた。灘尾氏と鄧穎超氏が機体から出てくると、駐機場にいた歓迎の人々からすぐに熱烈な歓声が上がった。灘尾議長は大きな声で、「春一番が吹き、春が鄧穎超さんと共にやって来ました!」と言った。 

これは新中国成立以来、全人代代表団による初めての日本訪問であり、また、日本が初めて迎えた、女性政治家が率いる外国議会の代表団でもあった。さらには、中国が改革開放を宣言した後、初めて日本を訪問した中国の指導者であり、『中日平和友好条約』発効後、初めて日本を訪問した中国の指導者でもあった。 

実は鄧穎超氏のこのときの訪日は、72年に田中角栄首相が周恩来総理と交わした日本への招待の約束に応えたものだった。72年の『中日共同声明』発表後、田中首相からの招きに対して、周総理は「サクラの季節に私はまた東隣(日本)を訪れ、上野のサクラを見たいと思っています」と述べたのだった。 

鄧穎超氏のこのときの歴史的な訪問は、「走親戚(親戚回り)」と称された。 

4月9日午前10時、鄧穎超副委員長は宿泊先である改修されたばかりの赤坂迎賓館を出発、車で東京永田町の国会議事堂へ向かい、衆参両院の政治家たちと面会した。 

席に着くとすぐ鄧穎超氏は、「迎賓館は国会議事堂から非常に近く、車でだいたい10分で、まるで中国と日本のようにとても近いですね」と言った。参議院議長の安井謙氏がすぐに、「中国には『一見如故(一見旧知のごとし)』という古い言葉がありますが、私たちは新しい友人であり、古い友人でもあります」と言い、一言で中日両国の当時の友好関係を言い表した。『中日平和友好条約』締結後、鄧小平副総理の訪日と中国の改革開放実施に伴って、中日両国間にまた新たな友好のピークが巻き起こっていた。鄧穎超氏は「北京の春風が私たちを東京に吹き送り、東京の喜びの雨が私たちを迎えました」と述べ、灘尾氏は「日中両国には2000年にわたる友好関係、文化において切っても切れない関係があり、これは伝統的かつ国民的な友情だといえます」と述べた。 

同日午前、鄧穎超副委員長は大平正芳首相を表敬訪問した。大平首相は「周恩来総理は愛国者であると同時に、国際主義者でもあり、アジアと世界の平和事業に非常に関心を持っており、私は敬服しています。私は周総理の生前の事業に基づいて、アジアと世界の平和のため、日中両国の友好のため、微力を尽くすつもりです」と述べ、さらに「日中両国は東洋文化の恩恵を共に享受しており、私たちには両国関係をさらに発展させる義務があります」と語った。鄧穎超氏は「歴史をかがみとして前を見て、中日友好のため、世界平和のため、私たちは両国の友好関係をもっと発展させなければなりません」と述べた。 

9日、昭和天皇ご夫妻が鄧穎超副委員長に親しく接見し、皇居にはまた雅楽が響いた。昭和天皇は鄧穎超氏に対し次のように述べた。「周総理は日中国交正常化に多大な貢献を果たしました。私たちは彼に感謝し、懐かしく思っています。周総理が当時滞在した場所をどうぞゆっくり見ていってください」 

また、東京で鄧穎超氏は、中国人民の古い友人である田中角栄元首相、福田赳夫元首相、園田直外務大臣、民社党委員長の佐々木良作氏、新自由クラブ代表の河野洋平氏、社会民主連合代表の田英夫氏ら日本の政治家を訪問した。 

田中元首相を表敬訪問した際、鄧穎超氏は5枚のサクラの写真を彼に贈った。そして、「田中先生が当時中国に贈ったオオヤマザクラはもう咲いています」と言った。朗らかなムードの中、ゲストと主人は共に目白の邸宅の庭にやって来た。田中元首相は鄧穎超副委員長を枝葉が茂った2本の木の下に案内して、「この2本の木は孫の雄一郎と真奈子に日中友好の伝統を継いでもらうために特別に植えたもので、孫の木と名付けました」と説明した。鄧穎超氏はこれを聞いてとても喜び、田中氏と木の下で記念撮影をした。また、田中氏は、72年に訪中した際、周総理を称賛する詩を書いたことを初めて中国の記者に明かした。 

躯如楊柳揺微風, 

心似巨岩砕大濤。 

(体は微風に揺れるヤナギのようだが、心は大波を砕く巨岩のようだ) 

創価学会の池田大作会長は鄧穎超氏の訪日を迎えるに当たり、第1回「周桜」観桜会を開催し、自ら2本のヤエザクラを植え、「周夫婦桜」と命名した。 

「周桜」といえば、周総理と創価学会の池田大作会長との間に切なくて美しい逸話がある。7412月5日、池田氏は2回目の訪中を行った。すでに305病院に入院して治療を受けていた周総理は池田会長の来訪を聞いて、必ず会うと言った。彼は鄧穎超氏に「創価学会は民衆に根差した団体で、日本の民衆の心の声を代表している」と話した。305病院の医療チームは重病の周総理が外国の来賓に会うことを一切許可しなかったが、総理は「古い友人が来たから会わなくては」と言った。周総理は個人の生命をまったく顧みず、病院内で池田会長に接見した。周総理は池田氏に「2回目の訪中ですね。あなたは若い。私はあなたとの交流を重視している」と語った。当時、周総理は76歳、池田会長は46歳。周総理は未来を展望して、「20世紀の最後の25年は、世界にとって最も重要な時期です。全ての国家が平等な立場に立って、助け合い、協力しなければなりません。一日も早く中日平和友好条約を締結することを望んでいます」と語り、さらに池田会長に、自分はサクラが満開の季節に日本を離れたので、「いつかまたサクラを見たいが、実現はおそらく難しいでしょう」と言った。池田会長は周総理の言葉をしっかりと胸に刻んだという。 

鄧穎超副委員長が東京を離れる前、代表団メンバーの趙樸初氏が『憶秦娥』の調で詞を1首したためた。 

滄海越,喜心乍似春山疊。 

春山疊,重来又是,櫻花時節。 

両邦共慶良縁結,相逢更覚情親切。 

情親切,千秋万世,同天風月。 

(青い海を越え、喜びがたちまち春の山が連なるように湧き起こる。 

春の山が連なり、またサクラの季節に日本にやって来た。 

両国は良縁を共に祝い、会えばさらに親しみを覚える。 

親しみがあるのは、長い間、同じ月を見てきたからだ) 

代表団が東京に到着して深く感じたことを表現している。 

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