鄧穎超副委員長の訪日を振り返る(中) 心に残る箱根・奈良・京都

2025-02-25 10:42:00

張雲方=文写真提供 

穎超副委員長が東京を離れ関西を訪問する前、日本側は風光明媚(めいび)な箱根に代表団を特別に1泊招待し、周総理も当時富士山を遊覧したと言った。実際のところ日本側と中国外交部は鄧穎超氏が疲れすぎることを心配して、この箱根行きをわざわざ手配したのだった。 

箱根は日本の観光地で、富士山を眺めるのに絶好の場所といわれている。ここには温泉の里とたたえられる「箱根七湯」、「一夫関に当たれば万夫も開くなし」の有名な古い関所「箱根関所」、富士山を映す鏡のように美しい「芦ノ湖」、日本人が大好きな「大地獄」――日夜蒸気が立ち上る「大涌谷」、人類の平和への願いを象徴している「平和公園」などがある。富士山は日本人の精神のふるさとで、箱根はふるさとの入り口だという人もいる。だが、どう言おうとも、箱根は富士山と切り離すことができず、日本人が観光に行く景勝地であり、また、心の中の憧れ、精神のよりどころでもある。 

たそがれ時の富士山は大空に浮いているかのように高々とそびえ、壮麗だった。箱根はまるで漂う雲霧の中に隠れているようだった。鄧穎超副委員長は皆と共に絶景を観賞し、「恩来さんも来たことがあるんですね」と言い、感慨に浸っていた。 

取材を続けているうちに、私たちは鄧穎超副委員長を「鄧大姐(鄧姉さん)」と呼ぶようになり、彼女もそれを聞いてうれしそうだった。鄧姉さんは、大使館職員の同行家族が私をよく「方方(ファンファン)」と呼んでいることを、符浩大使夫人の焦玲さんから聞いたのか、私を「方方」と呼んだ。私たちと鄧穎超氏一行は箱根ホテル小涌園に宿泊し、異国の温泉をたっぷりと満喫した。 

朝、庭を散策していた鄧姉さんは、坂道の下から部屋に戻る私を見掛けて、「方方、温泉卵を食べましたか?ここの温泉はとても気持ちがいいですね」と声を掛けてきた。そばにいた秘書の趙氏は、「鄧姉さんは、黒い温泉卵は特色があると思っているんですよ」と言った。 

早朝、小涌谷には霧が立ち込め、空気には濃い硫黄の匂いが混ざっており、富士山は霧の中にぼんやりと見えていた。皆、壮大で美しい富士山を観賞したり、写真に撮ったりして、なかなか朝食をとろうとしなかった。鄧姉さんの健康管理を担当する医師の顧復生氏(中国の有名な心血管専門家、北京友誼医院の主任医師)が、「外は霧が濃いですから、皆さん屋内に戻りましょう」と注意した。 

富士山に別れを告げた後、鄧姉さんは「富士山は美しいですね。道理で中日友好を例えてチョモランマは富士山に連なるというわけです」と感慨深げに言った。 

小田原駅で電車を待っているとき、鄧姉さんはうれしそうに皆を呼んで記念写真を撮った。彼女はわざわざ、「方方、こっちに来て、皆の写真を撮ってください」と言った。私はカメラマンではなかったが、道中、鄧姉さんのために多くの写真を撮った。 

関東も関西も心に残る場所だった。 

鄧姉さんの関西最初の訪問先は奈良だった。奈良では東大寺と唐招提寺を拝観した。東大寺の大きさと正倉院の古さを鄧姉さんは大いに称賛した。趙樸初氏はここについて最も詳しく、彼は鄧姉さんに自分と森本孝順長老との交流の物語を紹介した。鑑真和上の墓前で、鄧姉さんは香をたいて礼拝し、この中日友好交流に心血を注ぎ、日本への渡航を6回試み、日本に骨を埋めた友好の使者に祈りをささげた。鄧姉さんが趙樸初氏に「あなたは生涯を終えたら唐招提寺に来て鑑真和上にお供するつもりだと聞きました」と言うと、森本長老は「私は趙居士と、共に鑑真和上に仕えようと約束しました」と言った。 

道端ではシカがのんびり過ごし、古風な趣が至る所にあふれている奈良の町並みは、まるで1000年前の中日友好交流の時代にタイムスリップしたかのようだった。私たちが宿泊した「奈良ホテル」は、歴史の長い、天皇もかつて訪れたことのある高級な老舗だった。1年前に奈良を訪問した鄧小平氏もこのホテルに宿泊した。当時、鄧小平氏は偶然、日本の若者が奈良ホテルで日曜日に結婚式を挙げているのを見掛け、飛び入りで式に参加して、「中国人民を代表して、新婚のお二人を祝福します。共に白髪となるまで、末永くお幸せに!」と高らかに述べたのだった。 

当時の公明党委員長の竹入義勝氏と自民党幹部の同行の下、鄧穎超氏一行は京都の二条城を見学し、嵯峨御流の神田政甫氏らの生け花実演と裏千家の茶道実演を鑑賞した。枝が揺らめくシダレザクラの近くを通りかかったとき、一陣の風が吹き、花びらが乱れ散って、人々から歓声が上がった。鄧姉さんはうれしそうに、「天女が花をまきましたね」と言った。テレビ局の友人はカメラに収められなかったことを残念がった。日本側の意を受けて、私がシダレザクラを軽く揺らすと、瞬く間に花びらが雨のように降り注いだ。鄧姉さんは日本の友人たちに冗談めかして、「人の手によって美しい自然風景がつくられました。奇跡はみな人がつくり出すものですね」と言った。 

記憶に深く刻まれたことがもう一つあった。植物研究家の阪本祐二先生が日本政府を通じて鄧穎超氏に「中日友誼蓮」の種を贈ったことだ。「中日友誼蓮」については次のような美談がある。 

辛亥革命が成功した後、日本の友人の助力に感謝するため、孫中山(孫文)氏は秘蔵の2000年余り前の古いハスの実をいくつか日本の友人に贈った。古いハスの実は日本の生物学者大賀一郎博士によって育てられ、発芽開花した。その後、大賀博士はそれと唐招提寺にある鑑真和上が日本にもたらしたハスを交配し、ハスの新品種の育成に成功、「孫文蓮」と名付けた。当時の取材メモと阪本祐二氏夫人の説明によると、1951年、千葉県で2000年前に沈没した中国の古い船から古いハスの実が発見された。大賀博士はまた、古い船のハスの実と「孫文蓮」を交配し、「大賀蓮」を生み出した。63年、大賀博士は「大賀蓮」の種を中国に贈った。中国科学院武漢植物研究所は、中国の古いハスと日本の古いハスを交配して、新たなハスを育成し、「中日友誼蓮」と名付けた。その後、中国は「中日友誼蓮」を大賀博士の弟子阪本祐二氏に贈り、こうしてこの品種のハスは奈良の唐招提寺で咲くようになった。残念なことに、中国の「中日友誼蓮」は70年代に絶えてしまった。これが阪本氏が日本政府を通じて鄧穎超氏に「中日友誼蓮」を贈った理由である。 

79年の下半期に私は休暇をとって帰国した。日本側は私を通じて、また武漢植物研究所に24種類のハスの種(孫文蓮、錦蕊蓮、誠蓮、瑞光蓮、天竺斑蓮、蜀紅蓮、廬山白蓮、金輪蓮、茶碗蓮、西湖蓮など)を贈った。

 

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