「中日友好の船」訪日エピソード(2) 特別な盆踊り

2025-05-21 15:22:00

張雲方=文写真提供 

日友好の船明華号は1979年5月11日、下関港を出航し、夜の闇の中、「東洋のマンチェスター」と称される大阪へと向かった。 

中日友好の船は関西地域での交流を通じて、多くの美しいエピソードを残した。「日中教育交流懇談会」や「大阪日中友好合唱教室」、盆踊り、粟裕顧問が山田英一氏と再会したことなどは、中日友好の歴史において忘れがたい思い出となっている。 

廖公(廖承志氏)と粟裕顧問は特別に京都嵐山を訪れ、詩碑の前で周恩来総理をしのんだ。そして、「千古江山,風月同唱両邦情(千古の江山、風月ともに両邦の情を歌う)」という詩句を残した。 

中日友好の船が大阪に到着した後、5月13日、長谷川嘉一郎氏は日中教育交流懇談会設立に関する資料を私に託し、廖公に題字をお願いするよう依頼した。翌晩、私は廖公に日中教育交流懇談会について報告した。廖公は話を聞くと「それは素晴らしいことだ!」と喜び、快く題字を引き受けた。同時に、懇談会の責任者である大阪外国語大学の伊地智善継学長と長谷川嘉一郎氏とも面会した。 

日中教育交流懇談会は79年に設立され、その目的は中日間の教育交流を促進し、中国の「四つの現代化(工業、農業、国防建設、科学技術)」に貢献する人材を育成することにあった。78年末、懇談会の創設者の一人である長谷川嘉一郎氏は、朝日新聞社の編集委員(67年から72年まで中国駐在特派員を務めた)である秋岡家栄氏の同行の下、大阪から東京へ赴き、私と面会した。長谷川氏は、「十年にして木を育て、百年にして人を育てる」という言葉の通り、中国の長期的な発展には人材育成が不可欠であり、日中教育交流機関の設立は非常に意義深いと考えていた。そして、私に支援を求めたのである。 

廖公の題字を受け取った伊地智学長と長谷川氏は、大いに喜んだ。その夜、彼らは日中教育交流懇談会の仲間たちと共に、夜通しはしご酒を楽しんだ。翌朝早く、伏見の清酒が明華号に運び込まれ、廖公が鏡開きを行い、美酒を皆に振る舞った。 

「大阪日中友好合唱教室」は、小笠原美都子氏が自ら設立した民間の友好団体だ。小笠原氏は20年に生まれ、20歳で歌手としてデビューした。彼女が日本の歌手東海林太郎と共に歌った『琵琶湖哀歌』は、日本の昭和時代を代表する名曲となった。 

日中平和友好条約が締結された際、小笠原氏は「大阪日中友好合唱教室」の仲間たちと協力し、歌曲『永遠(とわ)の友情を』を制作した。78年、鄧小平氏が大阪を訪れた際、小笠原氏はこの友好の歌を披露し、鄧小平氏や夫人の卓琳氏をはじめとする中国代表団の熱烈な拍手を受けた。 

廖公率いる中日友好の船が到着する前、小笠原美都子氏から私に電話があった。彼女は、『永遠の友情を』を基に、中日友好の船のために特別に歌詞を作り直したと知らせてくれた。 

5月13日、大阪および関西地域で開催された中日友好の船歓迎レセプションにおいて、小笠原美都子氏は「大阪日中友好合唱教室」の仲間たちと共にステージに立った。彼女たちはまず中国語で『毛主席走遍祖国大地(毛主席は祖国の大地を巡遊する)』を歌い、最後の締めくくりとして『永遠の友情を』を披露した。歌詞は3番まであるが、1番からすでに聴衆の感情を最高潮へと引き上げた。 

 越過滾滾波濤,穿過遼闊海洋, 

 友誼的航船満載深情遠航。 

 日本啊,中国,一衣水,彼此隔海相望, 

 啊,朋友,縱情歌唱,為深厚友誼歌唱! 

 為永恒的友誼歌唱! 

 うねりたつ海原こえて 

 友好の船はゆきかう 

 日本と中国打ちよせる波はひとつ 

 友達よ いざ歌おう 深い友情を! 

 永遠の友情を! 

 夜、小笠原氏に感謝の気持ちを込めて、廖公は愛らしいパンダの水墨画を描いた。 

5月16日、中日友好の船は名古屋に到着した。名古屋は、小さな球(ピンポン玉)が大きな球(地球)を動かし、中米外交が始まる契機となった地。名古屋市近郊の知多市は、日本の元郵政大臣久野忠治氏の故郷だ。73年、久野氏は日本郵政代表団を率いて訪中し、中日両国の海底ケーブル協定に調印した。その際、廖公は北京飯店で宴を設けて歓待した。宴席で、廖公は冗談めかして「私が一番食べたいのは刺身です」と言った。すると、久野氏は「次回、閣下が訪日される際には、必ず刺身でもてなします」と応じた。 

名古屋に到着すると、久野氏は明華号を知多市の石川島播磨造船所専用の埠頭(ふとう)へ誘導し、大型車を用意して一行を知多体育館へと送迎した。下車後、久野氏は名古屋の接待担当者に何やら秘密めいた指示を出した。そして、中国からの友人一人一人に、「中日友好の船」と記された法被と白い手ぬぐいを配布した。 

実は、久野氏は日本の盆踊りの形式を取り入れ、中日両国の友人たちが一緒に盆踊りを楽しむ大交流会を演出したのだった。衣装を身に着けると、太鼓の音が響きわたり、日本の友人たちに続いて、代表団のメンバーたちも次々と踊り始めた。久野氏は廖公と粟裕顧問に向かって、「お二人は踊りの列に加わらなくても大丈夫です」と言いながら、太鼓のばちを手渡した。2000人以上が楽しそうに踊る様子を見た廖公は、思わず喜びを抑えきれず、大鼓を打ち鳴らした後、ばちを近くにいた日本の友人に渡し、粟裕顧問と共に盆踊りの大きな列に加わった。 

突然、誰かが「みこしが来たぞ!」と叫んだ。見ると、一群の人々が珠玉の飾りが揺れて鈴の音が響く「みこし」を担ぎ、高らかな掛け声とともに進んできた。群衆はたちまち歓声に包まれた。その夜、私は色紙にこう書き記した。 

 鼓声,笑声,号子声,声声入耳; 

 人情,心情,友誼情,情情在心。 

 太鼓の音、笑い声、掛け声、数々の声が耳に入る。 

 人情、心情、友情、数々の情が心に刻まれる 

知多市での一夜は、眠らない夜だった。舞いの宴が終わると、日本の友人たちはみこしを明華号へと担ぎ上げ、さらに10たるの清酒も船に運び込んだ。今日、このみこしは青島市の博物館に展示されている。 

廖公は、旧友である久野氏の厚情に感銘を受け、名古屋を去る際に彼のために1枚の愛らしいパンダの絵を描き、その上に「這就是我(これは私です)」という4文字を記した。 

神戸では、粟裕顧問が20年ぶりに旧部下の山田英一氏と思いがけず再会した。かつて山田氏は新四軍(国民革命軍陸軍新編第四軍)で名高い「砲神」と称され、新四軍初の砲兵中隊を創設した。その後、粟裕将軍によって砲兵営長(大隊長に相当)に抜擢された。48年の淮海戦役では、山田氏は野砲による航空機撃墜の先例を打ち立てた。4910月1日には、新中国成立の開国記念式典に光栄にも参列した。 

山田氏は、友好の船の行程を把握していなかったため、大阪から名古屋へ向かい、さらに名古屋から神戸へと急行した。粟裕顧問は彼を見つけると驚きの声を上げた。「私の砲兵営長、山田英一!」 

別れの際、粟裕顧問は自身のワイシャツとネクタイを山田氏に手渡し、深い情を込めてこう言った。「私は特別な贈り物を持っていないが、このまだ使っていないワイシャツとネクタイを記念に贈ろう。これを身に着ければ、私に会ったのと同じことだ」 

山田氏は次のように答えた。「粟将軍、あなたは私たちが敬愛する軍神であり、平和の守護神です。かつては中国の平和を守り、これからは日中友好、そして世界の平和を守るのですね!」 

関連文章