谷牧副総理の日本訪問記(上)
張雲方=文・写真提供
改革開放政策の実施後、中国に最も欠けていたのは「資金」であった。当時の中国は何もかもが不足しており、まさに「巧婦も無米の炊事ならず(無い袖は振れない)」という状態だった。
1978年、鄧小平副総理が日本を訪問した際、自民党幹事長の大平正芳氏はこう述べた。「日本には発展途上国向けの低金利政府貸付、すなわちODAという制度があります。年利約2%、返済期間は30年で延長も可能です。これまで社会主義国に貸し付けた前例はありませんが、日中関係が良好である今なら、特例として対応できます」
しかし、当時の中国国内では外国からの借款に賛否が分かれていた。「飢えて死んでも、施しは受けるな」とする意見もあった。79年1月、中国政府が招聘した国務院経済顧問の大来佐武郎氏は、谷牧副総理の招きに応じて訪中し、中国の改革開放に関する初の経済講座を開催した。谷牧副総理はこの機会を利用し、日本政府の貸付、特に「海外経済協力基金」について、かつてその総裁を務めた大来氏に個別に相談した。同年5月には、谷牧副総理はエネルギー関連の融資交渉のため訪日する中国人民銀行副総裁の卜明氏に対し、政府貸付について日本側に詳細を確認するよう指示した。
綿密な事前調査の上で、谷副総理は華国鋒主席と鄧小平副総理に報告し、「中国は今、再建すべきことが山積しており、融資は『ニワトリを借りて卵を産む』ことです。輸血から造血機能への移行において最も迅速かつ効果的な処方であり、改革開放に欠かせない一歩です」と進言した。
しかし問題は、借款を希望する中国側が自ら申し出なければならないという点だった。日本に頭を下げて貸し付けを求めるという役割を、誰が担うのか――これは政治的な課題であった。
79年に谷牧副総理が日本を訪問し、政府の低利融資をテーマに交渉したことは、まさに「頭に重圧、足元に地雷を踏む」ような状況であった。中国国務院の経済顧問・向坂正男氏の言葉を借りれば、「政治生命を賭けた行動であり、その悲壮な決意には深く心を打たれた」。谷副総理の母は、テレビで息子の訪日映像を見て理解できず、杖で床をたたきながら「漢奸行為(裏切り者)だ」と怒鳴ったという。
谷副総理の訪日は控えめかつ実務的なもので、メディア報道もほとんどなかった。同行者も最小限で、中国国際貿易促進委員会主任の王耀庭氏、国家基本建設委員会副主任の謝北一氏、秘書の胡光宝氏らのみであった。元部下で当時の駐日中国大使・符浩氏は谷副総理を表敬訪問し、外交官の唐家璇氏に同行を命じた。そして筆者にはこう告げた。「君は車を持っていて記者だから自由に動ける。連絡の用事があれば君が走ってくれ」(日本の法律では大使館員が東京を離れる際は外務省に届け出る必要があったが、記者は必要なかった)。だが、筆者は日本の政界関係者への取材があり、全行程に同行することはできなかった。
9月3日、谷副総理は大平正芳首相を表敬訪問した。首相官邸では、秘書官長の長富祐一郎氏が門前で出迎え、大平首相は応接室の前で待っていた。(大平首相には森田一秘書のほか、外務省の佐藤嘉恭氏、大蔵省の長富祐一郎氏、通産省の福川伸次氏ら各省庁派遣の秘書がいた)
握手を交わした後、大平首相は開口一番、「友、遠方より来たる、また楽しからずや!」と述べた。谷副総理は「論語の言葉ですね。東洋文化に共通の言語です」と応じた。
谷副総理にとってこれは初めての訪日であったが、若い頃に日本から「経由輸入」されたマルクス主義を学び、孫文、周恩来、魯迅ら多くの日本留学経験者の文章も読んでおり、日本に対する理解は深かった。これこそ彼が鄧小平氏に日本から学ぶべきだと進言し、大来佐武郎氏と向坂正男氏を経済顧問に招聘した背景である。
大平首相は率直に述べた。「日本は中国の発展を歓迎します。中国が発展することは日本の利益でもあり、中国の『四つの現代化』の実現を喜んで見守ります」。この「中国の発展は日本にとって利益になる」という名言は、後に多くの日本の戦略的政治家に受け継がれ、中日「ウインウイン」関係の同義語となった。これはまさに大平氏が中日両国に残した戦略的遺産であり、友好・相互補完・共同発展を導く名言である。
話が東洋文化に及ぶと、会話はさらに深まった。谷副総理は「私は子どもの頃、私塾に通い、孔子と孟子の教えを学びました。二人とも私の古里・山東の出身です」と述べ、大平首相は笑って「それで、秘書が『谷牧副総理の前で文化の話はするな』と注意していたわけですね!」と応じた。「中国は広大で豊か、輝かしい東洋文化を生み出しました。われわれ両国は地理的には一衣帯水、文化的には古くから交流し、経済的には相互補完できる関係です。協力しない理由はありません。若い頃、私は『老子』『史記』『十八史略』などを読みました。中でも『上善は水のごとし』が座右の銘です。中日関係はこの精神に従うべきです」と続けた。中日関係を「上善は水のごとし」にたとえたのを聞いたのは、私にとってこれが初めてだった。大平首相の見識と漢学の素養には感嘆せざるを得ない。その後、大平首相は続けてこう語った。「私は後に『三事忠告』を読み、『修身』『重民』『遠慮』『応変』の道理を理解しました。中華文化はまことに奥深く、偉大です」。谷副総理もまた、「大国を治めることは小魚を調理するようなものであり、胆力と知恵が必要です。断ずべきときは断じ、自然のままに行うべきなのです」と語った。
世界において、両国の指導者が文化的典拠をもとに語り合い、互いに通じ合ったという事例は、恐らくあの時代の東アジアのごくわずかな国々にしか見られなかったであろう。
会談の終わり、大平首相は忘れがたい言葉を残した。「日中両国の文化には多くの共通点がありますが、大みそかと元旦の一晩の違いが、365日を分けるのです」と述べ、「中国は広大で豊かな国。方向さえ正しければ発展は必然です。いずれ中国は日本を超える。そのとき、超えた中国は日本にどのような政策を取るのか。私たちはその未来も見据えねばなりません」と結んだ。
谷副総理の訪日は、まさに「水到渠成(物事が自然と順調に進む)」であり、日本からの無償援助を含む低利融資を確定させた。年末には大平首相の訪中も決まり、中日友好協力の新たな章が開かれることとなった。