最終回 沖縄の旅(下) 夢の中の情人
張雲方=文・写真提供
1980年1月25日、それは沖縄に到着して以来、最も忙しい一日であった。
首里の夜明けには、日本の茶道に通じる「わび」「さび」の禅の趣が漂っていた。質朴で、静かで、幽玄であった。都市のざわめきもなく、また田舎のかまどの煙も見えない。
沖縄史料編集所長・大城立裕氏の案内で、琉球王宮・首里城を訪ねた。古城は45年5月の沖縄戦で焼失し、首里の象徴である守礼門は58年に再建されたものである。門に掲げられた「守礼之邦」の4文字は、明の万暦帝の勅書に由来する。いわく――「惟爾琉球国,遠処海濱,恪遵声教,世修職貢,足称守礼之邦(遠く離れた島国でありながら、儒教の教えに従い、代々きちんと朝貢を続けている。まことに礼を守る国であるといえる)」。この「守礼之邦」は万暦帝・朱翊鈞自筆の御書である。史料によれば、首里古城の正殿には3枚の扁額が掲げられていた。中央は清の康熙帝の「中山世土」(中山〈琉球の別称〉王国の世継ぎたる土地)、左右に雍正帝の「輯瑞球陽」(祥瑞を集め、琉球の国が太陽のように明るく栄えるように)と乾隆帝の「永祚瀛壖」(海辺の地〈琉球〉が永遠に天の恵みを受けるように)である。
次に、私たちは円覚寺跡へと足を運んだ。ここは琉球国王が祭祀を行った場所で、1494年に創建され、沖縄戦で焼失、殿門は1968年に再建された。円覚寺を訪ねたのは、徐福の求仙伝説や鑑真の渡航遺跡を探すためであった。跡地には、植物学者・大賀一郎博士がかつて寄贈した蓮の花が、いまも小さな放生池にたくましく咲き続けている――。

その日、朝日新聞社の手配により、私は県知事や那覇市長を表敬し、米軍基地を見学することとなった。吉田実氏(同社編集委員)が冗談めかして言った――「夢の『情人』を見に行きましょう」。古代漢語で「情人」とは「情と義をもつ人」、すなわち「心ある友人」を意味し、「恋人」を指すものではなかったことを私は知っていた。では吉田氏の言う「情人」とは、何を指していたのだろうか。
沖縄県知事・西銘順治氏は評判の高い人物であった。彼は熱意をもって沖縄の現状を紹介し、さらに県総務部広報課長・松堂忠健氏、県農業試験場長・大城守氏、県農林水産部のサトウキビ技術者らに指示して、『沖縄のしおり』『沖縄の旅』『琉球製糖株式会社概観』『果樹生産関係資料』『琉球処分論』など、数多くの資料を取りそろえ、私に贈ってくれた。
西銘知事は沖縄のサトウキビとパイナップルの話になると、満面の笑みを浮かべて語った。「サトウキビとパイナップルこそ沖縄農業の柱であり、県の輸出産品の大部分を占めています」
那覇市長の平良良松氏は中国の古い友人である。「7月に代表団を率いて福建省を訪問し、那覇市と福州市の友好都市締結について会談します。張先生のお力添えを願います」と彼は言った。私は、74年に那覇市議の我那覇祥義氏らが市議会において、那覇と福州の友好都市締結を提案していたことを知っていた。
そして80年7月24日、平良市長は念願の訪中を果たした。訪中前、彼は帰国したばかりの私に、「福州でぜひ再会したい」と伝えていた。だが、25日の夜、過労のためか、福州での文芸公演を観覧中に心筋梗塞を発症した。幸い救急処置が迅速で、ほどなく回復した。翌81年2月、福州と那覇は正式に友好都市の絆を結んだ。
吉田氏は特に、私を久米村に案内してくれた。久米は「閩人三十六姓」が居を構えた地であり、「久米村発祥地記念碑」や、梁・蔡・金・田・高・翁・李・王・林・鄭・毛など三十六姓の碑が残っている。明の洪武25(1392)年、琉球の対明朝貢航路の安定を図るため、洪武帝・朱元璋は「閩人三十六姓のうち、舟をよく操る者たち」を琉球に移住させ、多くの海船を賜った。これが琉球における閩人三十六姓の由来である。彼らは「素より番舶に通じ、水道に明るい」技術者であり、その子孫と共に琉球王国の航海・貿易の主導者となり、中琉交流の懸け橋となったのである。
龍渓商事の法人代表・与世山茂氏が私を訪ねてきた。彼は「閩人三十六姓」の末裔であるという。彼は言った――「私の祖籍は福建で、毛氏12代目の子孫です。叔父の家には族譜があり、祖先は琉球へ渡り漢学を教えた人だと聞いています。生きているうちに、ぜひ先祖の故郷を訪ね、根を探したいのです」。その言葉は情深く、真摯であった。私は彼の願いをかなえるため、当時の福州市長・游徳馨氏に手紙をしたため、援助を求めた。うれしいことに、香港の熱心な実業家・林志権氏がこの話を聞きつけ、ただちに調査を行った。その結果、福建省漳州市龍海県(現在の龍海区)に毛姓の家が39戸、257人ほどおり、祖堂の名は「満美」であることが判明した。これこそ、与世山氏が探し求める一族に違いない。1980年11月15日、林氏の仲介により、59歳の与世山氏は海を越え、1000㌔の道を経て祖先の地へと旅立った。龍海では紆余曲折を経て、ついに宗族の人々と家譜をつなぎ直し、祖先のルーツを尋ねる夢を果たした。故郷に滞在した2週間、彼は福建省経済委員会副主任・斉一夫氏、龍海県長・周順明氏、そして毛氏一族の200人余りから熱烈な歓待を受けた。彼はしみじみと語った――「私は世界で一番幸せな人間です」。周県長は彼に「血は水よりも濃し」としたためた書を贈ったという。
嘉手納の在沖米軍基地を訪問したのは、沖縄訪問の小さな挿話である。米軍は実に愛想がよく、ジープに乗せて防衛施設を案内してくれた。嘉手納は極東最大の空軍基地である。米軍基地の面積は沖縄全体の18%を占め、在日米軍の74%(2万人以上)が集中している。60年代、米ソの冷戦時代には、米軍はここに最先端の防空ミサイルシステムを配備していた。見学を終えた後、私は冗談めかして尋ねた――「米軍が沖縄に駐留する目的は何ですか?」。相手は「日本を守るためです」と答えた。そこで私はすかさず言った。「沖縄の女性を暴行するのも、沖縄を守るためですか?」。同行の米軍関係者は両腕を広げ、肩をすくめて、気まずそうに笑った。米軍と沖縄住民との摩擦は絶えず、駐留撤退を求める声は高まり続けている。米軍の駐留をどう処理するかは、すでに日米両国の駆け引きの核心となっている。

25日、私の人生に永遠の記憶が刻まれた――空から眺める日本の南西諸島の旅である。9時ごろ、紺碧の空の下、最初に目に入ったのは久米島であった。サンゴ礁に縁取られた海の色は翡翠のように透きとおっている。次いで宮古島、伊良部島、多良間島、石垣島、竹富島、西表島、そして最南端の与那国島が続いた。「はやて」は低空でゆるやかに旋回し、朝日新聞社の友人たちは、太平洋と東中国海の間に点在する日本の島々を私にじっくり見せようとしてくれた。最南端の与那国島には、かすかに炊煙が立ち上っていた。朝日新聞社航空部長の山越尋夫氏が言った。「島の住民は3000人ほどで、その半数以上が閩人の子孫です」
飛行機は徐々に高度を上げ、南北に連なる山々の稜線がはっきりと浮かび上がった。私は思わず叫んだ――「祖国の宝島、台湾だ!」。雪をいただく高山、雲にかすむ都市……全てがなんと懐かしいことか。「はやて」は少し東北へと機首を向けた。そのすぐ先に、青緑の小島が見えた。私は目頭が熱くなった。――夢にまで見た釣魚島である! ちょうど1年前、鄧小平副総理が日本記者クラブで記者の質問に答えた情景がまざまざと思い出された。「争いは棚上げにし、共同開発を進め、後の世代に解決を委ねよう」。私はその場にいたのだった。
私は、おそらく中国人として初めて、朝日新聞社の取材機で台湾の東端と釣魚島を空から間近に眺めた者となったのであろう。
26日、私たちは朝陽を浴びて沖縄を後にした。海上を行く飛行機の下には碧緑の海、上には紺碧の空が果てしなく広がっている。雄大で、寛容で、生命に満ちたその景色――ここからこそ平和の波が生まれるのだと思った。私はふと、吉田氏の「夢の情人」という言葉を思い出した。そうだ、この地球の生命を育んだ大海こそ、私の夢の「情人」ではないだろうか。
沖縄の代表的建築である守礼門の前で記念撮影する筆者。1945年の沖縄戦で守礼門は戦火により焼失し、58年に再建された
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