月を愛でる風流
先月号は「季語」について述べたが、ここで取り上げる月も季語の一つである。
俳句や和歌と同様、漢詩も月を歌ったものが多く、中国人は「月」の別称を数多く生み出している。「桂月」「桂輪」「桂兎」「玉兎」「金兎」「玄兎」「墜兎」「夜光」「蟾輝」「蟾蜍」などなど。日本でも「月」は古来、「つく」「つくよ」「つくよみ」「つくよみおとこ」「つきひと」「つきひとおとこ」「ささらえおとこ」「かつらおとこ」「ののさま」「つきしろ」など、さまざまに呼ばれてきたようだ。
ほかにも、「月輪」「月霊」「月魄」「月陰」「太陰」「陰宗」「陰魄」「玉輪」「玉魄」「玉盤」「月兎」「玉兎」「陰兎」「玉蟾」「蟾蜍」「蟾宮」「蟾窟」「蟾兎」「桂兎」「桂月」「桂輪」「桂魄」「桂窟」「桂蟾」「姮娥」「嫦娥」「姮宮」「嫦宮」などの言い方もあるが、このうちの多くは、中国から日本に伝わったものだろう。
しかし、日本には季語として、陰暦の8月14、16、17、18、19、20日の夜や月の別称に、「待宵」、「十六夜」、「いざよう月」、「立待月」、「居待月」、「臥待月」、「更待月」などがある。これは、日本人には昔から八月十五夜の名月だけでなく、月の満ち欠けを愛でる風流があったことを示している。ところが、中国にはこのような言葉は見当たらないため、こうした日本的な表現を的確に中国語に翻訳することは並大抵のことではない。
もちろん中国でも、月は昔から詩の重要な題材であった。十五夜、十六夜、旧暦8月17日の月を歌った詩がある。例えば、晩年の杜甫は揚子江の巫峡や白帝城一帯でさすらいの旅を続けていたころ、「八月十五夜の月 二首」「十六夜、月を翫ぶ」「十七夜、月に対す」と題する五言絶句を書き残している。
ここでは、十六夜と十七夜の月を取り上げてみよう。
十六夜翫月
十六夜、月を翫ぶ
旧挹金波爽,皆伝玉露秋。
旧より挹む金波の爽かなるを
皆伝う玉露の秋と
関山随地阔,河漢近人流。
関山地に随って闊に
河漢人に近づいて流る
谷口樵帰唱,孤城笛起愁。
谷口樵帰唱す
孤城 笛 愁いを起こす
巴童渾不寐,半夜有行舟。
巴童も渾て寐ねず
半夜 行舟あり
(昔から十六夜の月は金の波のごとく爽やかで、誰もが今どきが玉露の置く秋だと言う。旅先が変わるごとに、都からかけ離れ、天の川は低く垂れて、人々に近づいてくる。谷間の方からきこりが歌を歌いながら帰りを急ぎ、夔州の孤城では、笛の音が流れて愁いの思いをつのらせる。今宵は、歌舞をよくする童たちも寝ずに、月の照る真夜中、舟をこぎゆく)
十七夜对月
十七夜、月に対す
秋月仍圓夜,江村独老身。
秋月仍お円き夜
江村独り老ゆる身
捲簾還照客,倚杖更随人。
簾を捲けば また客を照らす
つえに倚ればさらに人に随う
光射潜虬動,明翻宿鳥頻。
光に射られて潜虬動く
明なるに翻りて宿鳥頻りなり
茅斎依橘柚,清切露華新。
茅斎橘柚に依る
清切露華新たなり
(依然として月の円き秋の夜。江沿いの村で独り老いつつあるこの体。簾を巻き上げれば、月はわが身を照らし、つえを突いて歩けば、我に付いてくる。この光に射られては、池底に潜む虯も動き出し、あまりの明るさに木に宿る鳥さえしきりに羽ばたき、飛び立とうとする。蜜柑と柚子の木に寄りそって立つわがかやぶきの部屋からは、露の白玉がことのほか清らかに見えてくる)(『杜詩』岩波文庫 鈴木虎雄・黒川洋一訳注より)
陰暦八月十六夜、十七夜の月の特徴がそれぞれ描き出されているが、和歌や俳句に比べてスケールの大きさや特徴の捉え方の違いにお気付きのことと思う。
北京の故宮博物院から見上げた満月。古来、月は中日両国の詩作において共に重要な題材となってきた(劉徳有氏提供)
さて、月と言えば、歌や詩の世界では、阿倍仲麻呂と李白が思い出される。
仲麻呂は、霊亀2(716)年、唐へ留学生として派遣されるが、長い年月の間、帰国できなかった。ようやく35年後、藤原清河ら遣唐使の一行と共に帰国するに先立ち、明州(今の浙江省寧波)の海辺で、唐の友人たちと別れの宴を催した。夜になり、美しい月を眺めて故国の月を思い起こし、詠んだ歌が、
天の原ふりさけ見れば春日なる
三笠の山に出でし月かも
である。満月を眺めて懐郷の情にひたるのは、日本人も中国人も同じである。
仲麻呂の乗った船は、海上で嵐に遭って難破し、なんとか安南(現在のベトナム)に漂着した。ところが、唐の都、長安には、仲麻呂溺死と伝えられた。この一報を聞いた親友の詩人、李白は、非常に悲しみ、「晁卿衡を哭す」と題する七言絶句を書いた。
日本晁卿辞帝都, 日本の晁卿 長安を辞し
征帆一片遶蓬壷。去りゆく船は 東海の島目指す
名月不帰沈碧海, 明月のごとき君は海に沈みて
白雲愁色満蒼梧。白き雲 悲しく海辺を覆わん
阿倍仲麻呂の中国名は晁衡(または朝衡)、晁は姓、衡は名で、卿は官名の衛尉卿(儀仗・帳幕をつかさどる役人)の略。
救助された仲麻呂は、苦難を乗り越え安南から再び長安に戻った。その後、唐の朝廷に仕え、帰国できないまま中国に没した。仲麻呂は長安にとどまること、実に53年。玄宗はじめ、粛宗、代宗と3代の皇帝に仕えて、宮中の機密文書を扱う秘書省の長官・秘書監という要職にまで上り詰めた。その間、仲麻呂は李白、王維、儲光羲らの詩人と交わり、数多くの逸話を残している。
西安の興慶宮公園にある阿倍仲麻呂記念碑。側面には、仲麻呂と李白の詩がそれぞれ刻まれている(劉徳有氏提供)
先の李白の詩の中で、特に注目したいのは、阿倍仲麻呂を気高く清らかな明月に例えていることである。この詩を書くとき、月をこよなく愛した李白の頭の中には、仲麻呂のあの望郷の歌「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」があったのかもしれない。それともこれは、単なる偶然の一致だろうか。