漢詩にみる琵琶の音色

2019-08-21 16:07:30

劉徳有=文

美意識とも関連するが、審美の角度から言うならば、中国語と日本語は音の表現の面でそれぞれに特徴があるように思われる。日本にもなじみの唐代の詩人白楽天の『琵琶行』の日本語訳を例に挙げてみよう。

元和10(815)年、白楽天(44歳)は左遷されて九江郡に赴き、司馬に任ぜられる。客を送って潯陽江のほとりにやって来たところ、船の中から琵琶の調べが静かに流れて来るではないか。

 

江西省九江市の長江のほとりにたたずむ琵琶亭と白居易の像(劉徳有氏提供)

 

……

 忽聞水上琵琶声,   忽ち聞く 水上琵琶の声

 主人忘帰客不発。   主人帰るを忘れ客発せず

 尋声暗問弾者誰?   声を尋ねて暗に問う弾ずるものは誰ぞと

 琵琶声停欲語遅。   琵琶 声停んで語らんとすること遅し

 移船相近邀相見,   船を移し  相近づき邀えて相見る 

 添酒回灯重開宴。   酒を添へ  灯を廻らして      重ねて宴を開く

 千呼万喚始出来,   千呼万喚 始めて出で来り

 猶抱琵琶半遮面。     琵琶を抱きて  半ば面を遮る

続いて琵琶の音色……

 大弦嘈嘈如急雨,   大弦嘈々 急雨の如く

 小弦切切如私語。   小弦切々私語の如し

 嘈嘈切切錯雑弾,   嘈々切々錯雑して弾ずれば

 大珠小珠落玉盤。   大珠小珠玉盤に落つ

 間関鶯語花底滑,   間関たる鶯語 花底に滑らかに

 幽咽流泉水下灘。   幽咽せる泉流水 灘を下る

(東京大学教授阿部吉雄氏の訳による)

 

これは、「返り点」を使った伝統的な訳し方であり、日本では漢詩を翻訳する場合、このような方法が多く使われている。これだと、原文に近く、力強いリズムがある反面、元の詩の持つ音楽的な美しさが失われかねない。しかし、日本には韻文で漢詩を翻訳する動きもあり、その効果は明らかに「返り点」式の訳し方と違うものになっている。次に挙げる東洋大学教授で文学博士の魚返善雄氏の訳は、読者に変わったイメージを与えるのではないだろうか。

 

……

 ふと川わたる琵琶の音に、

 去るも帰るも待つみぎわ。

 音をたよりに名を問うに、

 琵琶はとだえて声をのみ。

 船こぎ寄せて呼び迎え、

 ともしび掲げまたうたげ。

 呼びたてられて出できても、

 顔をかくして琵琶のかげ。

 ……

 大糸さわぎ雨のごと、

 小糸はそっと語るごと。

 サラサラ·チロリ真珠だま、

 大つぶ小つぶ玉の皿。

 チロリうぐいす花の下、

 サラサラむせぶ泉川。

 

魚返氏の翻訳は音色を際立たせ、美しく、しかも流ちょうであり、大変詩的で、伝統的な翻訳にありがちな「硬さ」を克服している。また、最後の6行を見ても分かるように、ライム(韻を踏むこと)に注意を払っているように見受けられる。「雨のごと」「語るごと」の「と」は、母音が「o」、「真珠だま」の「ま」、「皿」の「ら」、「下」の「た」、「川」の「わ」の母音は全て「a」となっていることにお気付きだろう。

漢詩の翻訳についての氏の主張を要約すると、次のようになる。

「これまで日本人の読む中国詩は、本来散文向きの訓読方によって『形』をこわされ、まったく別のムードの文体に変化すると同時に、原文特有のリズムやライムは無残にも放棄されてしまった」

「そのうえ儒教的道徳意識の過剰や、文化の異質性に対する理解の不足から、原作の『想』が的確にとらえられず、おまけに訓詁注釈的傾向にわざわいされて、訳文の用語や風格すなわち『調』のそこなわれることが多かった」

「詩を詩として訳すこと、つまり想と形と調のすべてにわたって心をくばるのが外国詩鑑賞の一般的基礎であり、(中略)『評釈』『通釈』『口語解』などと称して原詩の数倍にも及ぶパラフレーズが試みられているのは、結局のところ語学的注釈または解読であって、文学的翻訳とは別ものである」

しかし、魚返氏の訳はあまりにも柔らかく、漢詩固有の力強さが失われているようである点も否めない。このように、中国語と日本語にそれぞれ特徴と差異があるため、無理をして両者兼備のものにする必要はないのではないかとも思われる。

以上の例からもお分かりのように、レトリックに与える中国語の響きの影響は、外国語と比較して初めて発見され、その比較によって言語の持つレトリックの特色がはっきりと現れるのだと思う。筆者の見るところでは、中国語の詩の持つ韻律はとうてい外国語には翻訳できない。中国語の分からない人に漢詩の音律と響きを本当に理解していただくのは、極めて困難なことだと思われる。

詩歌を専門に翻訳している、ある翻訳家が嘆いてこう語っている。「詩の翻訳は、ある意味では『非合理的』なことであり、おおげさに言うならば、その不合理さはダビンチの油絵を中国の伝統画に翻訳し直すか、またはベートーベンの奏鳴曲を中国の民族音楽に翻訳し直すようなものである。幸いにして、音楽も美術も翻訳をする苦労が省かれ、直接各国の人々に鑑賞され、理解されるが、ただ詩歌だけはそれができない。したがって、詩歌の翻訳者たちは無理をして、『骨折り損のくたびれ儲け』のような仕事をさせられているのである」

要約すると、中国語の発音には美的な表現力が強く、音楽的で、調和の取れたリズム感があり、この面で確かに得をしているといえよう。しかし、日本語も独自の特色を持つ美的表現力があり、同じように美しく、調和が取れ、リズム感があり、音楽的である。思うに、どの民族であれ、その言語の響きの美しさは、全て内容の美しさに依拠しなければならず、根本的に言って、内容と心の動きによって決まるものだ。もし、そうしたものがなければ、人を感動させる芸術的な力も失われてしまう。内容と形式、形式と内容の弁証法的統一とは、まさにこのことだと思うが……。

中国語と日本語の両者の比較研究を通じて、この二つの言葉の持つそれぞれの特徴をいっそう深く理解し、中日双方の文化や両国人民の美意識、物の考え方、深層の心の動きなどの共通点と相違点を知ることができるのではないだろうか。

 

北宋時代に作られた韻書『広韻』。中国では昔から、詩などの韻文を作る際、押韻可能な字を調べるために韻書を用いた(劉徳有氏提供)
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