わび さび ものの哀れ
2019-10-11 14:53:38
劉徳有=文
日本の伝統的文芸、あるいは俳句、茶道について語るとき、欠かせないのが「わび」「さび」「ものの哀れ」という日本独特の美意識であろう。
いつだったか、北京で裏千家の新年の茶会に呼ばれたとき、「雪間の草」という美しい名の付いた茶菓子が出された。丸い形をした白い菓子の上にちょこんと小さな緑色が載せられていて、いかにも早春らしい風情を漂わせていた。ちょうどそのころ、北京の街のところどころに残雪が見られた。その季節にふさわしいおもてなしだった。
出席していた中国の客に主人は、「わび」「さび」を提唱した千利休は早春の残雪に埋もれた草の芽から、一筋の希望を見いだしたと解説を加えた後、藤原家隆の短歌を紹介してくれた。
花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや
この短歌は第15代家元・千宗室氏(現在の鵬雲斎千玄室氏)によれば、次のように解釈されている。「わび」は一般に「静寂」の世界というように理解されやすいが、実はそうではない。雪の下から萌え出た春草とは「動」の一面であり、そのうごめく「わび」こそが日本人の気質を表している。したがって、「わび」には「静」「無」「暗」の一面だけでなく、躍動する「陽」の一面もある。この両面の「わび」の精神を発揮してこそ、茶道は生命力を持つのだ。
この見解は、万物を絶対視しないという中国の提唱する「弁証法」――すなわち物事を一面だけで捉えるのではなく、常に両面から見るべきであるというものの考え方にかなっているのではなかろうか。ここに、中日両民族のものの見方の接点を見いだすことができると思う。
実を言えば、「わび」も「さび」も、中国人には分かりにくい概念である。『日本国語大辞典』によれば、「わび」は「茶道、俳諧などでいう閑寂な風趣。簡素の中にある落ち着いた寂しい感じ」とあり、「さび」は「蕉風俳諧の用語で、発句・付句の句中における閑寂の色あいを主調とする、深くかすかな美的情趣をいう。……古びて枯れたあじわいのあること。閑寂な趣のあること。地味で趣のあること」とある。
中国では、「さび」に「閑寂」「幽寂」「幽玄」を、「わび」に「枯淡」「寂寥」「古雅」などの訳語をそれぞれ当てているが、どこか物足りない感じがする。
清朝の乾隆皇帝の師で、詩友でもあった沈徳潜が中国古典詩歌の審美の伝統に触れたとき、その一つに「古澹」、すなわち「古淡」を挙げている。「古澹」は、「枯淡」に通じ、日本の「わび」「さび」とも相通じる概念であると言えるかもしれない。
沈徳潜(1673〜1769年)は、清代の文人、学者。蘇州府長洲県の出身。67歳でようやく進士に及第。詩の才能と知識を乾隆帝に評価され、97歳で亡くなった後、太子太師の称号を贈られた(劉徳有氏提供)
沈徳潜は『喬慕韓詩序』の中で、漢の蘇武や李陵の詩および無名氏の『古詩十九首』こそ、華美を求めない「古澹」の伝統の代表であるとして、次のように述べている。
「味則泊乎不覚其甘也,格則渾乎不覚其奇也。音則泠々乎不覚其傾耳動聴也」
翻訳すれば、「味は淡泊にして甘みを覚えず。形はなべて等しく奇なるを覚えず。音は清らかにして、耳を傾ける感動を覚えず」というほどの意味である。作品に渋味を出し、様式は奇をてらうようなことはせず、調も人々をあっと言わせるものではないなどの主張は、まさに「わび」「さび」に相通じ、また中国から伝わった禅の思想にも通じているのではなかろうか。
ところで、「ものの哀れ」だが、この日本的美意識というのが誠にやっかいで、何人もの日本の方に「ものの哀れ」について尋ねたが、なるほどと納得できるような明快な答えを得ることはできなかった。中国の日本文学研究者たちは「ものの哀れ」を「触景生情」「触景傷悲」「愍物宗情」「感物興嘆」などと訳しているが、いまひとつ隔靴掻痒の感を免れないところがある。
過日、中日両国の文学者が東京でシンポジウムを開いたときの話である。日本側の一人が日本文学の特質である「ものの哀れ」について話し出したが、これに困ったのが中国側の通訳だった。中国にはない概念なので、適当な訳語が見つからない。やむなく「日本的な悲哀」と訳して討論が続けられたが、中国側の出席者はみんなキョトンとして、一向に盛り上がらなかったそうだ。
そこで思い出したのが、日本の漢詩や詩吟を愛好する人々の間で、広く愛唱されている唐代の詩人・張継の七言絶句「楓橋夜泊」。
月落烏啼霜満天
月落ち 烏啼いて 霜 天に満つ
江楓漁火対愁眠
江楓の漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺
姑蘇城外の寒山寺
夜半鐘声到客船
夜半の鐘声 客船に到る
日本人がいかにこの詩を愛唱しているかは、毎年、大みそかになると蘇州の寒山寺まで「夜半の鐘声」、つまり、除夜の鐘を聴くために日本から大勢の人が訪れることからも分かる。中にはこの地を訪れた感激のあまり、涙を流す人も珍しくないという。
寒山寺の鐘(劉徳有氏提供)
では、この詩のどこが、そんなにも強く日本の人たちの心を揺さぶるのだろうか?
一説によると、この詩の作者である張継は、科挙の試験に失敗し、鬱々たる思いを抱いて蘇州まで来たとき、この詩のような情景に接して、湧き上がる詩興の中で「楓橋夜泊」を作ったとされる。もちろん、この詩の最大の眼目は「江楓の漁火愁眠に対す」の「愁」であり、そこには試験に落ちた詩人の憂鬱と旅情とが見事に重なり合っている。
本居宣長はその著『石上私淑言』の中で「見る物聞く事なすわざにふれて情の深く感ずる事」を「あはれ」と言うのだと述べているが、私には「楓橋夜泊」もまた、宣長のいう「あはれ」に満ちているように思われる。そうであるからこそ、この詩には日本人の琴線に強く触れるものがあるのではないか。
こうした例から、私は「ものの哀れ」「わび」「さび」は日本人の伝統的な美意識だが、中国伝統文化の中にもそれと通ずるものがあったと考えている。ただ、中国ではそれが芸術の分野で一つのカテゴリーとして扱われていなかったということなのではないだろうか。
要するに、中日間の文化には共通点もあれば、相違点もあり、さらには互いに相通ずるものもある。それは、あたかも地下水がどこかでつながっているようなものだ。
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