中国料理は錬金術 日本料理は?

2019-12-26 16:34:40

劉徳有=文

長い日本生活の中で感じたことだが、中国と日本は食べ物や料理の作り方に違いがある。

  長い歴史の中で中国文化の影響を受け、日本人も豆腐を食べたり、お茶を飲んだりするが、独自の食べ物の習慣があり、自らの食文化を作り上げている。

 中日両国の食文化の違いは、おそらく地理的な環境や歴史的条件の違いなどから生まれたものだと思う。中国は東部や南部を除いて、ほとんどが内陸部で、西部や北部は遊牧民族と頻繁に接触していたため、魚より肉をよく食べる。

 中国にも海鮮料理があるが、基本的に奥地の人は魚を食べない国民だと考えてもらっても差し支えない。

 なにしろ、中国は東部は太平洋に面しているが、西部は山岳地帯や砂漠が延々と続き、海を見たことのない人がざらにいる。もちろん、池や湖には淡水魚がすんでいるが、多くの地域ではそれを捕って食べるという生活習慣がないようだ。

 今から五十数年前、政府の「下放政策」(国家公務員など頭脳労働者を地方の工場や農村に送り、肉体労働をする中で再教育を受けさせること)で、山西省の農村に赴き、1年間ほど野良仕事に従事したが、そこの農民は川魚を一切口にしなかった。不思議に思ってそのわけを聞くと、

 「川魚は砂や泥を食べて大きくなるから、あんなものは食べられない」

 という答えが大真面目に返ってきたものだ。改革開放後、いくらか変わっているかもしれないが……。

 日本人の場合、たとえどんな魚嫌いでも、たちどころに5、6種類は言える魚の名前も、中国人にしたら、なかなか出てくるものではない。同じ「魚釣り」についても、日本と中国には大きな違いがある。日本人はどんな魚を釣るのか、目的意識がハッキリしているが、一般的な中国人にとっての魚釣りとは漠然とした大まかなもので、どんな種類の魚が針にかかるかは、さほど重要な問題ではないようだ。

 息子は子どものころ日本に留学した経験があるが、ある日、下宿のおじさんに連れられて釣りに出掛けた。岸壁で糸を垂れていると、日本の若者が近づいてきて、「何を釣ってるんだい」と聞いた。息子が中国的な発想と感覚から、たどたどしい日本語で「サカナ」と答えると、その若者はバカにされたような顔をしてそこを立ち去った。それもそのはず、「サカナに決まってるじゃないか?」

 

中国では都市部でも川辺や公園で魚釣りを楽しむ市民の姿を目にすることができる(新華社)

 

彼が期待したのは、ブリとかメバルとかの具体的な魚の名前だったのだろう。

日本ではすし店に入ると、数十種類の魚偏の漢字が書かれているメニューをよく見かけるが、この中には中国人が見たこともないような漢字がたくさん含まれている。「鰙」「鮴」「鮗」などがそうで、いずれも中国の辞書にはない日本製の漢字なのだ。

前述したように中国人は沿海地方に住む人たちも含めて、魚の正式名称をあまり知らないし、特に知りたいとも思っていないようだ。従って、魚の呼び名も、その魚が黒色をしていれば、「黒魚」、顔の形が馬の顔に似ていれば、「馬面魚」、グチ(いしもち)は黄色なので「黄魚」もしくは「黄花魚」といった具合に、もっぱら俗称で呼んでいる。

また、捕れた魚の調理法も日本と中国では、全く発想が違っている。

日本人は総じてあっさりした味を好む習慣があり、しかも食べ物の自然の風味や形をできるだけ保とうとする。魚でいえば、握りずしや刺身、生け作り、焼き魚などは素材の味を最大限に生かすための調理法だろう。

一方、中国人は(主として漢民族だが)、一般的に言って料理をするとき、食材を細かく切ったり、練ったりして、その原型をとどめなくしてしまうのは、ごく普通のことである。味にしても八角、こしょう、唐辛子、桂皮、ネギ、ショウガ、ニンニクなど大量の調味料を使って元の味を変えてしまうことに情熱を注ぐ。いわば、素材本来の味から離れた別の味に仕上げることが、中国料理では理想とされている。実際、中国では出された料理がトリなのか魚なのか、はたまたブタなのか見当のつかないことは珍しくない。

中国料理は長い歴史の経過とともに、非常に発達した料理方法を編み出しており、火偏のついた漢字が大変多いことが、そのことを物語っている。

例えば、「煎」「炸」(油で揚げる)これには「軟炸」と「乾炸」がある。ほかに、「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」など。辞書で調べてみたら、「」(油で炒めてから、くずあんをかける)というのもあった。日本の友人と食事をするとき、メニューを日本語で的確に説明するのに一苦労する。

 

蘇州の名物料理「松鼠桂魚」。桂魚(スズキ科の淡水魚)の唐揚げに甘酢あんをかけたもの。形が松鼠(リス)に似ている(新華社)

 

 1994年の秋、平安建都1200年のイベントに参加するため、京都を訪れたときのこと。「蛍」という料理店で懐石料理をごちそうになった。最初に出たのは、半分に割った青竹の容器に、松葉に刺さった銀杏が2個とカニの肉が少々並べられた料理。その横に、黄色くなったイチョウの葉と真っ赤な紅葉にピンクの柿の葉が飾ってあった。その次に出たのは、伊勢エビと鮎で、皿の代わりに竹でこしらえた小さないかだが容器だった。このほかに、牡蛎も出たが、それは大きな牡蛎の貝殻に載せてあった。ふと、窓外のこじんまりとした庭に目をやると、竹と楓と怪石の間を、せせらぎが心地よい音を立てているではないか。この静かなたたずまいに見とれながら、知らず知らずのうちに自分が大自然の中に溶け込み、季節感を重んじる俳句の世界に身を置いているような錯覚に陥った。

 

 中国料理と日本料理を比較した場合、両国人民の味覚と美意識の違いがはっきりと分かる。ある外国人は、「中国料理は錬金術──つまり見たこともないような物から不思議な物を作り出す魔法的能力であるとするなら、日本料理は皿に静物を盛り付けた芸術である」と言っているが、誠に言い得て妙だと思う。

 

 料理は、両国人民の美意識の違いを映し出す鏡でもあると言えるのではなかろうか。

 

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