玉虫色
2020-06-23 17:03:46
劉徳有=文
「玉虫色」という言葉に、どんぴしゃりの中国語がない。
玉虫は中国語で「吉丁虫」もしくは「彩虹吉丁虫」といい、中国南方の台湾一帯やアジアの他の地域に生息している。オスは全身が金緑色で、羽の両側には赤い縦じまが1本あり、腹帯は赤で、華やかで愛らしい。メスは全身が黒くて、金色の光沢があり、縦に筋が数本入っていて、大変に美しい。そのため、玉虫は「昆虫の中の宝石」と呼ばれている。
この虫は光の当たる角度の違いによって、緑色になったり紫色になったりと、違う色を呈する。光の角度によって色がいろいろ変わることを、日本では「玉虫色」といっているが、戦後、織物で、縦糸と横糸に違う色を使って織るため、光の角度の違いで「玉虫」の羽のように異なる色合いを見せるものがあり、「玉虫織」と呼ばれた。その後、日本では化繊の「玉虫織」が増え、和装コートや背広に使われた。いってみれば「玉虫色のコート」である。
「昆虫の中の宝石」と呼ばれるほど美しい玉虫(劉徳有氏提供)
「玉虫色」には、このような特徴があるので、この言葉は「同じ事柄でありながら、人の立場や見方の違いによって、自分に有利なように別の解釈ができる」という意味を表すのにも使われるようになった。「玉虫色」の使用範囲はますます広がり、政治・外交・経済の各分野にまで及んでいった。
例えば、外交の場で双方が協議して起草したコミュニケなどは妥協の産物であることがしばしばで、同じコミュニケでありながら、それぞれが自分に有利なように解釈することができる。こういうコミュニケを「玉虫色のコミュニケ」という。
日本で生活して感じたことだが、「玉虫色」は外交の場面だけでなく、国内問題にもよく使われている。筆者が日本で経験したことだが、いつぞや、国会の予算委員会で、所得税減税問題を巡って一度は与党による「単独採決」で異常状態に陥ったとき、『読売新聞』が「『玉虫色収拾』と野党の思惑」という記事を載せ、次のように報道した。
「衆議院議長の裁決案で与野党が妥協し、ようやく正常化へ向かったが、肝心の所得税減税問題は、与野党それぞれ、都合のよいように解釈できる相変わらずの玉虫色の決着」
「裁定そのものは、きわめて抽象的であり、これによって、どの程度の減税が、どんな方法で具体化されるのか不透明だ。(中略)現段階では与野党それぞれが有利に解釈し得る余地を残した、文字通りの玉虫色の内容となっている」
ここでいう「玉虫色の決着」も「玉虫色の内容」も、どちらも人によって違う解釈ができることを言っているのである。
ところで、外交文書なども、双方もしくは多国間の妥協によってまとめられることが多い。外交交渉で主張が折り合わず、難航したときなど、最後に「玉虫色」で決着をつけるようなことはよくあることだ。しかし、この「玉虫色」という表現だが、中国にはこれに相当する言葉もなければ、訳語もない。普段、「各取所需」(各自都合のいいように解釈する)とか、「模棱両可」(どっちにでも取れる)とか、「含糊其詞」(曖昧模糊とする)というような表現を使っている。
筆者の観察では、後に、西側諸国の間で、「タマムシ」の表現が次第に浸透し、国際的にも通用するようになったようだ。
さて、表現を曖昧にする「玉虫色」という言葉は、どのようにして生まれたのだろうか。
筆者が新聞記者として日本に滞在していた1969年に、時の佐藤栄作首相が訪米してニクソン大統領と会見。双方の協議により、米国は沖縄返還に同意した。その条件は、「核抜き」「本土並み」というものだった。しかし当時の世論は、米国が沖縄を返還したのちも、沖縄に依然として「核兵器が配備され」ているだろうし、しかも「日本本土の沖縄化もありうる」と指摘した。このような状況下で、佐藤内閣の木村俊夫官房副長官は、「玉虫が見る方向によっていろいろ違う色に見えるように、立場や見方によって同じこともさまざまに解釈されるものだ」との談話を発表した。ここから、木村官房副長官の言い方を「玉虫色理論」というようになり、広く使われるようになった、というのがどうも真相のようである。
日本人は曖昧で論理的思考が苦手で、しかも「玉虫色」の決着を好むという説があるようだが、それは一面的で、全てがそうであるとは限らない。筆者の友人であり、かつて日本で特派員をしたことのある北京放送の記者、李順然氏は彼の体験として『日本 第三の開国』という本の中で面白いことを書いている。
「日本語は、はたしてそんなあいまいなことばでしょうか。たしかに、日本語はあいまいな面ももっていて、それが便利なときもあります。ですが、そうかと言って、明瞭、厳密に使えないというわけではないようです。東京赴任後、このことを目のあたりにするような事実に何回も出会いました。例えば、東京着任後待っていたのはマンションの部屋の更新手続き、この契約がどうしてどうして、たいへん明瞭・厳密な日本語で書かれていました。それでも明瞭さ、厳密さが足りなかったのか、2年後の再更新のときには、契約書の何カ所か文字のうえでなおしてありました。なるほど、日本語もその気になれば明瞭・厳密に使えるのだなあと思いました」
『日本 第三の開国』では、日本語の曖昧ではない面が紹介されている(写真・張雪/人民画報)
筆者自身、日本で特派員をしていた頃、『エコノミスト』誌で「日本人と論理性」という巻頭言を読んだことがある。それにはこう書いてあった。
「日本人の頭が西洋人に比べて、論理的、科学的思惟によわいとか、日本的思惟の独特の性格を備えているというようなことはあるはずがない。
違いがあるとすればそれは思惟の形式や能力にでなく、論理的、科学的に物事を考えるということがたんに学問や思想の世界においておこなわれるだけか、あるいは実生活のいろいろの学問の判断や議論や処理においてもそういう思考態度が尊重されるか、というところにあるのではないか」
ということは、日本語でも論理的にハッキリと物を言おうと思えば、曖昧にでなく、明瞭に言えるということだろう。
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