「長三角」は長三角形か?

2020-08-17 14:57:21

劉徳有=文

 中国の新聞を広げると、経済建設を報道した記事に、しばしば「長三角」という言葉が出てくる。日本人にとって見慣れない「長三角」という言葉は、いったい何の意味だろうか?

 「正三角形」や「鋭角三角形」「鈍角三角形」は聞いたことがあるが、「長三角形」は初耳。二つの辺が底辺に比べて長い三角形ではないかと思う向きがあるかもしれないが、まったく違う。「長三角」は、中国語で「チャンサンジャオ」と発音し、「長江」つまり揚子江の「三角州」の略で、揚子江デルタ地帯の意味である。

 中国最大都市の上海から中国のベニスと言われる水の都・蘇州を中心とした長江(揚子江)河口流域のデルタ地帯は、1978年の改革開放後、目覚ましい産業の発展と住民の生活向上に伴って、一躍有名になり、中国はおろか、世界からも注目されるようになった。

 この地域には江蘇省、浙江省、上海市のほか、蘇州市、南京市、杭州市など15の都市が含まれ、産業は半導体、LCD(液晶ディスプレイ)、ノートブックパソコンなどが中心となっている。全国の中で陸地面積はわずか2・2%、人口は10・6%ながら、GDP(国内総生産)は20%、輸出は30%を占める、まさに中国経済のけん引車役といえる地域なのだ。

 

浦東地区の夜景(新華社)

 「長三角」と並んでよく登場するのが「珠三角」だ。こちらは「ジューサンジャオ」と発音し、「珠江三角州」の略で、珠江デルタ地帯をいう。

 珠江は広東省を流れる川で、そのデルタ地帯は改革開放後、いち早く中国の経済特別区として最先進経済地域になった。この地域の主要都市には広州、深圳、珠海、東莞、仏山などがあり、繊維、アパレルや電子、電機、自動車、および部品などの集積化が進んでいる。外資系にさまざまな優遇政策を提供しているため、海外資本が安価な土地と労働力を求めて進出し、中国の高度成長の起爆剤となった。

 中国を旅行される日本人の方には、ぜひ、この二つの「三角」に注意していただきたい。

 さて、「長三角」に戻るが、「長三角」の主要都市・上海の近年の変化、特に浦東地区(黄浦江以東の地域)の変化には目を見張るものがあり、焦点を当ててみたい。長江=揚子江河口デルタ上に位置する上海市といえば、解放前は主に黄浦江西岸が開発されていたが、長い間冒険家のパラダイス、悪の巣窟として知られていた。新中国になってから、上海は一変して中国の有力な工業基地となり、各種産業はじめ、金融、交通、文化、教育などの分野で目覚ましい進捗ぶりを見せた。だが、世界の衆目を集めた上海の最大の変化は、何といっても78年の改革開放以降の浦東地区の建設であろう。

 浦東地区は面積が1200平方㌔ほどあり、もともとは農村地帯。バラックが点在するみすぼらしい寒村のようなところが多かった。それがわずか30年の間に、以前の農村地帯が近代的な都会に「変身」するという「換骨奪胎」の変化を遂げ、高層ビルが林立し、ニューヨークのマンハッタンを思わせるような景観を呈するようになった。いつぞや上海の日本総領事館の方が筆者に、「高層ビルがどんどん増えて、知らず知らずのうちに東京の新宿を追い越してしまった」と驚いていた。浦東地区には今、第1次、第2次、第3次産業が進出し、医療衛生はじめ文化、教育、通信などの設備が整い、各種商店の並ぶ繁華街もあちこちに姿を現し、団地に住む市民生活に便宜を与えている。統計によれば、浦東地区の住民は現在550万人に達している。

 浦東地区はまた、上海の重要な交通の要であり、世界を結ぶ港や空港、鉄道のほか、縦横に走る高速道路や黄浦江をまたぐ橋、海底トンネル、地下鉄、モノレール、バスなどがあり、交通の便が極めて良い。

 99年に完成した上海浦東国際空港は、総面積82万4000平方㍍、滑走路が4本(3800㍍が2本、3400㍍が1本、4000㍍が1本)あり、2017年の年間旅客利用数は延べ7000万4300人、貨物の取扱量は383万5600㌧、航空機の発着回数は延べ49万6879回と繁忙を極め、浦東地区交通の花形としての役割を見事に果たしている。

 このように、浦東地域が新たな開発区としてスタートし、大発展を遂げるに至ったのは、中国の改革開放事業の総設計師・鄧小平氏の提唱と支持があったからに他ならない。

 それは、1990年の初春のことであった。中国の伝統的な祝日である旧正月――春節を迎えるため、鄧小平氏は北京から上海へ移動。上海の今後の発展について、地元の責任者からいろいろ報告を受けたとき、鄧氏が「上海の指導者諸君は戦略的視野に立ち、浦東開発に力を注ぐよう」と語ったのが、そもそもの始まりであった。その直後、中国の中央政府――国務院による浦東開発についての政策決定が下され、翌年の91年1月、上海を再度訪れた鄧小平氏は、次のように語り、ハッパを掛けた。「浦東開発は単に浦東のみならず、上海全体の発展にも関係するものであり、また、人材・技術・管理方面の優勢を持つ上海という基地を利用して、長江デルタ地帯と長江流域の発展を図るためのものだ。勇気を奮い起こして事に当たろうではないか」

 92年の10月、国務院により、「浦東新区」設立が正式に批准され、浦東新区の建設が本格化される段階に入った。

 改革開放後、直ちに大規模な建設に取り掛かった広東省の深圳「経済特区」などに比べて後れを取ったが、浦東の開発は、予想以上に発展のテンポが速く、目を見張るものがある。

 鄧小平氏は晩年に入ってから、毎年のように春節に合わせて上海を訪れていたが、94年、7回目の上海訪問の際、わざわざ新錦江飯店の43階にある展望台から上海の全景を眺め、「上海は変わったなァ!」といかにも感慨深げだった。

 浦東建設を含む「長三角」の今後の発展は、最近中国によって打ち出され、習近平国家主席が力を入れている「長江経済ベルト地帯」や「一帯一路」の戦略と相まって、今後ますます重要な役割を果たしていくに違いない。

 もし上海の浦東建設を「世紀の交響楽」に例えるなら、総楽譜を書いたのは、まぎれもなく鄧小平氏で、全体の指揮を執っているのは中国共産党中央であり、政府国務院であるといえよう。

 

1992年2月7日、上海の楊浦大橋の浦東側工事現場を視察し、指揮本部責任者の報告を聞く鄧小平氏(前列右から2人目)(新華社) 

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