中国の目指す「小康社会」とは?

2020-09-28 10:55:46

劉徳有=文

昨今、中国の新聞紙上に「全面建成小康社会」という言葉が頻繁に登場しているが、「小康」の2字を見て日本人の描くイメージと中国人の理解との間にギャップがあるように思われる。

日本人なら、「病気が一時良くなる」とか、「世の中が少し治まり、しばらく落ち着くこと」を連想するに違いない。ところが、中国では、「ややゆとりのある生活を維持できる家庭の経済状況」を「小康」、もしくは「小康人家」という。冒頭の「全面建成小康社会」は、「ややゆとりのある生活ができる社会を全面的に完成させる」が正解である。

さて、この「小康」だが、この言葉自体は、孔子の編さんになる中国最古の詩集『詩経』に初めて出てくる。

 

民亦労止 汔可小康 民も亦苦労し、小康を求む

     

日本語に訳せば「人民は心底、苦しんでおり、無事と健康を求めている」の意味であるが、「小康」が前述のように生活状況の一種として使われるようになったのは、『礼記』(周の末期から秦・漢時代の儒者の古礼に関する説を集めた書物)の礼運篇が最初である。

孔子をはじめ中国の古代思想家は「小康」社会の在り方についていろいろと述べているが、結局は自給自足の小農社会であり、よりましな生活に憧れる当時の農民たちの願望を表しているにすぎない。

 

「小康」という言葉は『詩経』の「大雅・民労」の冒頭に登場する(写真・籠川可奈子/人民中国)

この「小康」という言葉に時代の新しい息吹と内容を与え、「中国式社会主義現代化」の青写真を描いたのが鄧小平氏であった。

1979年12月6日、北京で来訪の大平正芳首相と会見した際、鄧小平氏は「小康」に触れてこう語った。

「私たちが実現を目指している四つの現代化は、中国式の四つの現代化です。中国の四つの現代化の概念は、日本のような現代化と違い、『小康之家』なのです」

このとき、通訳をしたのは筆者の友人・王効賢さん。王さんの話によると、通訳の現場で、「小康」という耳慣れない言葉を耳にしたとき、一瞬戸惑い、とっさのことで、日本語の適訳が思い浮かばなかったが、そのまま「ショウコウ」と訳した。日本語の「小康」には別の意味があることをもちろん承知の上だった。果たして通じただろうかと王さんはいささか不安だったが、大平首相がうなずいたのを見て安堵の胸をなで下ろしたという。

「それは、具体的には……」と大平首相から質問された鄧小平氏はこう答えている。

「今世紀(20世紀)末までに、中国の四つの現代化がある程度の目標に達したとしても、国民総生産の1人当たりの平均額は依然として低い水準にあります。たとえば国民総生産が1人当たり1000㌦に達するのに、さらに大きな努力を払う必要があります。仮にそのレベルに達しても、西側に比べればまだ立ち遅れているのです。もちろん、現在よりはよくなるでしょうが、中国はなお小康状態にあるといえるでしょう」

その後、鄧小平氏の戦略として、中国は経済発展の三つの段取りを定めた。すなわち、第1段階は1981年から90年まで。80年に1人当たりのGDP(国内総生産)はわずか250㌦しかなかったが、これを倍に引き上げて500㌦にする。この第1段階で、民衆の衣食の問題を解決する。

第2段階は91年から20世紀末まで。1人当たりのGDPをさらに倍増させて1000㌦にし、「小康」社会を実現させる。

第3段階は2001年から20年ごろまで。1人当たりのGDPをさらに4倍増の4000㌦にし、中程度の先進国のレベルにまで引き上げる。

このうちの第1と第2段階の目標は早々と達成され、02年に開かれた中国共産党の第16回全国代表大会で、21世紀初頭の発展戦略として、さらに高い目標が掲げられた。これまでの「小康社会」という言葉の前に「全面建設」という言葉が入り、経済の発展、民主の健全化、科学教育の進歩、文化の繁栄、社会の調和、人民生活の向上などを総合してさらなる前進を目指すことになったのである。

当初、20年ごろまでに1人当たりのGDPの目標を4000㌦と定めたが、18年には9500㌦と1万㌦近くに達し、予定の倍以上になった。1980年の1人当たりのGDPがわずか250㌦だったのから40倍近くに、そしてGDPの総量が一躍世界第2位に上昇したことを合わせ考えると、まさに隔世の感がある。しかし1人当たりのGDPが1万㌦程度というのはまだまだ少なく、世界におけるランクは70位で、日本の25位に遠く及ばない。

「文革」の混乱で中国経済が一時、崩壊の瀬戸際に立たされていたことを思うと、改革開放は中国の面貌を一新したと言っても決して過言ではない。

言うまでもなく、中国は他方で多くの課題も抱えている。例えば、貧困撲滅、大気汚染や地下水の過度の抽出、耕地の乱用、草原の砂漠化の防止や緑化の拡大、食品の安全などいろいろあるが、貧困からの脱却は、中国の目指している「全面小康」の重要な一環であろう。中国政府の定めた「貧困線」は、1978年には1人当たり年収100元だったのが、物価上昇の要因も加わって、2011年に2300元、16年に3000元、18年に3535元に引き上げられた。基本線以下の生活を貧困と見なし、この基準(世界的に見て、まだ低い水準だが)に基づき、全国の貧困人口は、1978年に7億7000万人という膨大な数だったのが、40年余りのたゆまぬ努力を経て、昨年末には551万人にまで減少した。中国は人類の貧困削減の歴史における奇跡を起こしたと言える。小康社会の全面的完成という目標と要求に基づき、これらの人々も今年中に全て貧困から脱却することになっている。

国土が広く、自然の条件も複雑な中国で、しかも主として辺ぴな農村地帯における貧困脱却は並大抵でなく、想像に絶するものがあろう。政府としては、地元農民に依拠して農村における特色ある産業の振興、職業技能の養成、都市への出稼ぎ、労働力の海外展開、他の地区への移住などさまざまな方策を講じ、貧困地帯への資金投入はもちろんのこと、医療保険制度の実施と完備、「留守児童」の教育、女性・高齢者・身体障害者に対する特別な配慮等々、全国の貧困脱却を「堅塁攻略戦」と位置付けて取り組んできたたまものであるといえよう。

当初中国が定めた貧困者ゼロの目標は、このようにしてついに達成されるに至ったのである。

 

1979年12月6日、北京で大平首相と会見した鄧小平氏(手前左)。左端が通訳を務めた王効賢さん(新華社) 

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